桐生からくり人形Q&A 1)きりゅうからくり人形保存会はいつ頃できましたか? 平成9年11月1日に発足し、平成14年7月5日に研究会を保存会と改名しました 2)桐生にはからくり人形は幾つありますか? 41体あり、曾我兄弟夜討・助六由縁江戸桜・赤穂義士討入・巌流島・羽衣宇治川の先陣などあります。他に三浦屋の舞台背景や、引札(広告チラシ) 3)曾我兄弟を復元したのはなぜですか?
江戸文化の名残を留める人形は、貴重な文化財なので、会員各位の努力で、見事復元し、仕掛けの解明や小道具の作成に苦労しました 4)天満宮御開帳で見世物としていつ頃からやっていましたか? 明治27年天満宮境内で竹田縫之助の活人形からくり芝居が始めてで昭和36年までに6回開催されております 5)宇治川の先陣は誰の製作ですか? 昭和3年本庄の人形師「米福」の作で、天満宮境内で飾りものとして興業されたが祭りの経費が足りなく成ったので、斉藤福一郎氏が当時の金額で400円で購入したものである 6)作りかけの工作がありますが? 桐生工業高等学校建築課の生徒が、松村先生指導のもと地域の文化財を実習でとりあげ、さきには明治館模型復元、今回三浦屋背景に取り組んでおります 7)巌流島由来 この人形は、天満宮境内で興業されたもので、一場は佐助が漕ぐ小船に乗り船島(巌流島)に向かう宮本武蔵。第二場佐々木小次郎との決闘場面で、それを見守るお通の姿も見える 8)古いクサリ状態のものは何ですか?
水車のチェーンで大正5年までは、水車を動力とし木製のチェーンが使用されていた 9)引き札とは何ですか? 広告チラシで、古いのは明治35年の色付き引き札、大正5年地図入り引き札(この2枚は(株)コスモ社)に無料でプリントしてもらった 10)赤穂義士討入りに舞台は、釘を一本も使用しない組立舞台で、高草木建設の製作です 11)いつでも実演と見学ができますか? 私達は、ボランティアでやっていますので(会員数29人)毎月第一土曜日を目途に開館しますが、その他の日は有鄰館に申し込み見学のみは出来ます |
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水車からくり人形芝居・宮本武蔵巌流島の決闘 桐生からくり人形保存会 経過 その昔、桐生川より梅田村大字下久方の大堰から導入した潅漑用水、下久方宇町屋(現在群馬大学工学部横)を経て押出地区に分水し、その流れは桐生ガ丘丘陵に沿って西南に向い、天満宮裏から境内の太鼓橋下を通り、本町通りに沿って流れており潅漑、工業用水として桐生の産業の発展に貢献してまいりました。 この用水を利用して大正時代まで水車を設置し、それを動力源として天満宮御開帳では水車からくり芝居が上演されておりました。水車からくりの計画は、97年から研究を重ねてきたが、水車を高須孝重氏から寄贈を受け、部品は大縄機料から提供があり、桐生市から約2トン容量の水タンクを戴き、天満宮とファッションタウン桐生推進協議会などが活動をバックアップしてくれました。
これを由緒ある天満宮太鼓橋下の水路の跡に埋め込み、タンク内の水を循環させ、いったん落ちた水を集めて濾過し、再度タンクから 揚水されて絶え間なく、一定量の水で水車が稼働する方法を佐藤貞巳氏が設計し、原田設備、高草木建設が施工して2002年12月25日に通水式が行われました。 03年2月19日NHKが天満宮境内でからくり人形のライブ放映をする時、水車からくりの仕掛けをセットして水車動力のパワーに自信を深め、舞台の基礎は大工が作ったが、昔の材木で組んだ舞台小屋を再現しようと、4月13日桐生市より間伐材を貰い受け、梅田清流広場で材木の皮剥きに会員が挑戦した。 出し物は、宮本武蔵巌流島の決闘で、総括は山鹿会長があたり、仕掛け操作は佐藤、星野、紙谷氏のコンビに、駆動部分を堀内、下山氏が担当、録音は相場、竹田、近藤さん。その他多くの会員が奉仕されて、有鄰館のからくり人形芝居館で何回もテストを繰り返し、5月15日に分解して天満宮に移動した。 5月17日は、天満宮春季例祭で境内には本紗綾市も開かれ、10時開演前から観客が詰め掛け、新聞各社の記者やNHK、TBS、GTV、桐生ケーブルテレビなど詰め掛け、上演日も延長され3日間で約1,300人が鑑賞した。 人形は昭和27年に使用した天満宮所蔵の人形を使い、講談社発行の「吉川英治集宮本武蔵」や他の文献を参考に組み立て、第一場は佐助の漕ぐ小船に乗る宮本武蔵、第二場は決闘場面(6分15秒)水車の水量調節で、小次郎が倒れるタイミングを計りかねる場面もあったが、予想以上の出来栄えで関係者は安堵した次第であります。 竹田記 |