桐生は
1.織物のまちである。
2.江戸時代に作られた「御召」が 代表織物である。
3.八丁撚糸機の発明で強撚糸を使用した「御召」の製造が可能になった。
4.桐生のまちの原風景は水車の廻るまちだったようである。
梅田村の水車(いなずま式)と呼ばれていたらしい
1200年の歴史の中、桐生織物の興隆の1つに『御召』がありますが、縮緬織物の質の向上と増産が、水車を動力とした八丁撚糸機が大きな要因となっており、代表する織物になりました。
桐生のまちの姿を語るときに、一般には本町の街並みを語ることが多いのですが、それはきらびやかに織上がった振り袖の外観だけに目を向けて、織物工程に携わった多数の職人の技を見ようとしないことに似ているように思います。
外から来た人は桐生の風景をどう見ていたか。例えばそれは、高山彦九郎の『忍山湯旅の記』 (1778)に見らるのです...
「新宿村は、左右の人家皆糸織をもって業とす、家の前小溝流れる、水車をもって綱を引き延えて糸を繰る、奇異なる業なり、人の身なりもむさむさしからず、これよりほどなく桐生新町なり、新町は南北への通りなり、6丁ばかり人家多し、町のなか溝流れる、これも水車をもって糸を繰る、富家多し、この所紗綾・縮緬・綸子・龍紋など、多く出るをもって、繁華にして人驕者の風あり」(『ふるさと桐生のあゆみ』平成10年発行 P.118)。
桐生の街並みの原風景は、このように『水車のあるまち』だったのでしょう。