須田米吉・水車論文

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原典:桐生史苑 須田米吉氏文章より引用(掲載許可申請中)

桐生界隈の水車と水路

須田米吉
 
(昭和四十七年十一月)

まえがき
 昭和39年の春、石北政男さん、阿佐見誠一郎さんを通して、前原準一郎さんを通して、前原準一郎さんから、水車に関する資料集めを依頼された。幸い、桐生地方の水車の数種を一応手掛けた経験もあったので、簡単に引き受けはしたものの、さて具体的に報告するとなると、実地調査が必要となり、前原さん他界後も、つい深入りして現在に至った。もともと、文才も無し、暇もない悲しさ、水路の調査は捗らず、我乍ら不満な一文だが、指導と協力をいただいた周東隆一さん始め諸先生や先輩への口約も果たしたく、拙文を草した。

 さて動力源をしての、水車の原形に、バツタン車というものがある。平凡社版の「世界大百科事典」によると、一方に 杵を取り付け、一方に水を受ける器を取り付けて中心をささえ、器に水が溜まるとその重みで杵が上がり同時に水は流れ落ちて、うすをつく様な仕掛けである。とあり更に別名を「そうづ」「さこのたろう」と呼ばれている、とある。当地方でも、桐生川、山田川の上流の、せせらぎに見られた米搗用の具であった。構造は前述の如く簡単なものだが、動力源としての条件は一応具えて居りしかも九五%と効率の高い点では、なかなか興味深いものがある。

 また、八百屋専門の「芋車」というものがあった。これは主に里芋の皮をむき洗いする為のもので、ユーモラスな具である。芋を入れる部分は、割り竹を内側に向けて周囲にはり付けて六枚の水受板を取り付け、一ヶ所の出し入れ口から芋を入れて水流でまわす、水車であると同時に、芋を洗う器具でもある。

 時には回転中、口が開いて芋が全部流失したなど、思わず噴き出すような失敗もあったという。

 水車という名称から云えば、「タービン」」を第一に挙げることはいうまでもないが、私は横軸型木製水車に就いてのみ述べることにする。後に度々出てくる「当時」とは大正中期と御承知ありたい。

 また水路については、初め旧市内のみを書く予定だったので、新市内の水路の勉強を等閑にした上、最近の水路状況は都市計画の為に調査困難となり、至らぬ箇所が多いが、大方の寛怒を願いたい。

一、水車の種類

 当地方では、地勢上河川の流水状態が様ようで、従って、使われた水車の型式は、四種類ほどにのぼった。

(イ)ブツ越し車、上掛式で、落差の大きい桐生川、山田川の上流で使用され、少ない水量でよく高馬力を得られ、効率は、八五%を越えると云う。

 写真(イ)は相生町一丁目の高草木茂吉さんが庭園の情趣を添える為の手造りの模型上掛水車である。第一図に見る如く、容量をより多くする為に、受板、羽根板、の配置を工夫されて居り裏板は全張りにし、箱樋(導水樋)から逬出する水の力と、柄杓内の水の重力とが合わせて働く。落差と水輪直径との比は一〇対七が適当である。梅田村馬立(現梅田町五丁目)の星野富吉さん宅では祖父の代から、桐生紙(別名はしきらず)の製造を営み、以前には相当量を生産したが、漸次需要が減るにつれて、規模を縮小し現在では自家用と、乞われるままに市役所を近隣への需要に応じる程度であった。氏の使用している、「ブツ越し車」」は、桐生川に注ぐ谷川の水を、掘り回りから更に箱樋に受けてまわしていた。水輪直径は、一丈(三メートル)巾五寸(四五センチ)回転数は25回で出力は一馬力半乃至二馬力と推定される。用途は精米と楮皮の叩砕だったと云う。

(ロ)        上げ下げ水車(下掛式)写真(ロ)別名押し車とも云い、水車の下部に流水を受けて回転を得る。効率は他種に及ばないが、多い水量を巧みに利用するところに、この水車の特徴がある。小さい落差(桐生の水車利用者は之を「ド」と呼ぶ。現今では廃語となっているが、蓋し当地方だけの方言であったろう。)に利用される型式で、赤岩用水、大堰用水の上流に多く見られた。水の増減や、回転の遅速の調節に、省力の為の挺子応用の巻き上げ装置で、水輪を上げ下げするので、この弥がある。

  主要部分は、台框、吊框、巻き上げ装置、水輪等で、車軸を受軸間の距離は、当然上げ下げ毎に変化するので、歯車とハシゴチエンに依って回転伝達がなされた。水輪は受板だけの簡単なものだが図二に見るごとく、放射線に対して、五〜八度の後退角(私の仮称)を与え、斜の落流を直角に受けるよう設計されている。水輪直径三メートルに対して、巾は一メートルと、他種に比して著しく広いのは、水量の多いところに利用するからである。

水輪を 上げ下げするには前述の如く挺子棒(鉄棒)を巻き上げ装置のコロの孔に差込、鉄棒の他端を、力まかせに押し上げて操作する。往々差込が不十分で、抜けた鉄棒と共に川に転落することがある。幸い川下ででもあれば濡れるだけですまされるが、川上の場合は水輪にはさまれる危険が多分にある。この様な時の危急措置として、予備の鉄棒を用意して置く必要があった。 

(ハ)       ど箱車下掛式当時一般には箱車と呼んだが、これは水輪の櫛型が箱状になっているためと勘違いし易いので私は特に「ど箱車」と呼んでいる。ど箱とは水輪を定位置に安定させ、ど箱の底板を落差を生じる様に張り且つ両側からの水の散逸を防ぐよう「水寄せ」を備えた部分の名称である。水量、落差共に少ない兎掘用水等で使用され(ロ)の型と同じく、水輪の下部に水流を作用させて回転を得る。堰板の脱着に依って水量を加減し回転を調節する。

 この車種の泣き所は第三図に見る如く、水輪の外径と、ど箱の底部との間隔が、二センチと、せまい為に塵芥が閊えて、回転を止める事である。「ごみ除け」と称する格子を、ど箱の入り口に装備するが、薪の燃えさしなどは、その間を潜って羽根板を損傷することがある。損じた板を自ら手早く取り替える要領も心得て置くべきことである。

(ニ)       大水車、下掛式これは、ど箱車のジャンボ型で、構造は(ハ)と同じだが、大きさは優に三倍はある。したがって、出力も大きく、五馬力六馬力のものはざらにあった。水圧の高い為に、堰板も脱着なぞと手軽にはゆかないで、閘門式にねじ応用で上下させて水量の調節をする。用途は精米、製材、織物仕上げ等であった。

総べて下掛式では、車尻(第三図参照)の水捌けの悪いのは禁物で、淀んだ水は回転の障害になる。原因は車尻で、石または塵芥が邪魔をし、或いは、下燐の水車が、水位を上げ過ぎて水捌けを悪くするために生じるもの、当時一般に「つばえる」と称した。之も当地方の方言らしく「ど」と共に現今では廃語となっている。

 木製水車の共通の悩みに「回転むら」がある。水車大工は、水輪組み立ての際に、この欠点を生じないように慎重に重さのバランスを取るが、それでも、材料の水の吸収差のために、この現象を生じる。このような時には、木片鉄片等で加減するが、モーターのような等速は容易に得られない。当時力織機、整径機に水車利用を試みた人もあったが、これが失敗に終わったのは回転むらの故であったと云う。

 また、晴天の休日に管理を怠ると、翌日は著しい回転むらの為に、一時始業不能となる。これを避けるためには、必ず休日の午後二時に、正確に水輪の上下を顚倒して置くことを、忘れてはならない。

 以上の車種のほかに、胸掛水車(胴掛水車)がある。これは、落差と効率が、上掛けと下掛けの中間位のものだが、当地方ではあまり見なかったゆえ省略する。

 水車使上伝動装置は、欠くべからざる要素である。精米水車の多くに見られる直軸伝導に始まって、歯車を直接噛み合わせたもの、はてはツルベ、ベルト、ハシゴチエンを使ったものや、水車からの回転をクランク軸に受け、それを連結杵の往復運動に変え、さらに再び別のクランク軸に回転を受ける所謂「いなづま」という伝導方式まである。いずれも状況に応じ、目的にしたがって、各々の特長を活用した。例えば、ベルトは回転の早い場合に、上げ下げ水車のごとく車軸と受軸間の距離が気ままに変化する場合にはハシゴチエンを用いる。いなづまは遠隔の地点への伝達に適し川内町の高草木波吉さんの話によれば、四〇〇メートル、五〇〇メートルの伝達も可能であったという。

さて、当地方の水車数は私の得た資料では、四五〇基を越えている。これら数多く作った「水車大工」は現今では皆物故されているので、当時の状況を調べるよすがもない。私の記憶に、常祇稲荷の東に在住し多くの従弟を仕立てた小林雷太郎さんと云う人があった。従弟たちに、横室収、山添伝太郎、羽鳥安祐の諸氏が居た。また菱村の和田米吉氏は、通称「米大工さん」を親しまれ、菱村一帯と、兎堀用水の水車を作り、時には依頼者の経済援助にまで引き受けた。写真(ハ)の模型はこの人の作った実物をモデルにしたものであり写真(ロ)のミニチュアは、羽鳥安祐の作った実物をモデルにしたものである。

二、水路暫見

 水車の動力源として農業用水を利用したのは新しく水路を開くよりもずっと安上がりであったからだと、砂糖武雄氏は「水の経済学」で説いている。桐生地方で水車使用者の多くが、農業用水を利用したのも、同じ理由によるものである。試みに下表によって比率をみると、水車四五六基中、菱村の「営業用水」と称した水車専用水路の利用が九基で二%、河川利用が二四基で五%、農業用水利用が四二三木で九三%と圧倒的に多い。さてこれらの水路を一つ一つ拾って見よう。

 

燃料

糸繰

精殻

織物仕上

製材

灌漑

機械工作

赤岩堰用水

169

97

19

4

 

 

2

291

大堰用水

28

5

7

1

 

1

 

42

兎堀用水

21

1

 

 

 

1

 

23

広沢用水

15

3

7

 

 

 

 

25

菱村用水

44

 

1

 

 

 

 

45

山田川

3

 

6

 

 

 

 

9

桐生川上流

2

 

6

 

2

 

 

15

岡登用水系
天王宿水路

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1

5

 

 

 

 

6

282

112

51

5

2

2

2

456

 

(一) 岩用水渡良瀬川赤岩鉄橋より四〇〇メートル下流の左岸、上の原(現清瀬町)から取水、各所で分流し、七条となり、一条は渡らせ川に、二条は桐生川に注ぐ。水量の多いこと他川に凌ぎ、丹羽源一さんによると一二〇町歩の水田を潤したをいう。その上水車数も当時の過半数を占めていた。併し渡良瀬川には、水田八〇〇〇町歩を擁する待堰、矢場川堰を控えていることとして、赤岩用水の管理関係者の利水の苦労は容易なものではなかったお、当時水路委員だった佐々木元吉さんは述懐されていた。

昭和三十四年厚生病院新設の為の敷地造成を契期に上の原の取水口をその上流五〇〇メートル元富士紡発電用水の取水口に変更、めがね小橋の地点で接続名実共に赤岩用水となり現在に至った。

(二)大堰用水梅田村(現梅田一丁目)地先桐生川より取水、町屋(天神三丁目)押出し(天神二丁目)宮原8天神一丁目)を経て本町通りを南下して新川に落ちる。押し出しで、右岸より分かれた水路は西安楽土を経て新川に注ぎ、町屋左岸より分かれた水路は下久方、東安楽土を経て桐生川に落ちる。この主流水路は押し出しよりきたは感慨水路として、宮原より南本町通りは防水用水として役立った。

(三)堀用水桐生側系で芳毛村(現東二丁目)北端の兎堰から取水、芳毛村、東安楽土一帯の水田を潤し「山の腰」で桐生川に注ぐ。水量は豊富をはいえない上に長さも1.5キロと短いがよく二三基の水車を抱容した。

(四) 広沢用水、渡良瀬川右岸、富士山麓から取水、相生村、広沢村を縦走南下すること五キロ、福祉まで渡良瀬川に落ちる。如来堂賀茂神社近傍から分流した水路は斜面を流下して坂下(通称)から桜木通りを横断水田を潤しつつ南下用水主流に合する。この水の坂下は短距離ながら数多くの水車が続いていた。思うに急流の為に各車の楽さが充分に得られたことに因するものであろう。

(五)菱村諸用水桐生の東にある菱村は観音山を、カーブした桐生川の間にある村である。ここの用水は四条で、金葛堰、吉兵衛堰、原堰で桐生川から取り水した。別に通称営業用水といわれた水車専用に堀さくされた当地方でも珍しい水路があったが桐生川敷の拡張の為、惜しくも取り払われた。これらの諸川は旧二州橋の袂で桐生川に注ぐが、金葛堰から取り水した一条は白滝神社の道路下をトンネルで潜り久保田用水となる。

(六)山田川源流は鳴神社に始まり、各所で支流を集めて、一〇キロを南下し、落合橋下を流れて渡良瀬川に注ぐ河川で、感慨に水車の動力源に住民に密着し、清涼な河川であるが、水源が浅いために、ひでり時は水穂の植付けを、しばしば後らせざるを得なかったという。

(七)桐生川上流源流を根本山に発し、高沢川、忍山川等の支流を合わせつつ、群馬、栃木両県を南下する河川で、風光の明眉と、清流の故に、山葵。高沢苔の生産地として名高い。山峡の故に林業が盛んで、ここは製材用水車が二基あった。また蒟蒻の製粉水車もあったと青木忠作さんが語られた。

(八)岡登用水系天王宿水路赤岩橋より西、富士山下を右にカーブした道路沿いにこの水路がある。大間々街道、岡登用水から分流、街道に沿って東方に流れ、赤岩橋の上流五〇〇メートルの地点で渡良瀬川に注ぐ。

以上の各水路は、皆水車に関係あるもののみを拾った。

 

三、水車の消滅と現況

水車使用の最盛期は大正年間の半ばと考えられるが、この時期の様に、使用者が多いときは、落差不足のない限り水車は使いやすかった。というのは、数が多ければ人も多く、しぜん利水や、水路の管理も行き届き、水量の人為的な増減等を是正させる声も強くなるからである。大正も晩期には入ると、使用者殊に燃系業者の中には、設備拡充の為の動力不足や、回転むらを忌むために電力に切り替える工場が漸増し、次第に水車使用者は減少し昭和時代に移ってその傾向は、著しくなり、先ず兎堀用水に姿を消し始めた。昭和も十五年以降になると、第二次世界大戦の様相が濃くなり、益々減少の一途をたどりつつも、なお水利の便のよいところでは、かろうじて残っていたが、企業設備の国策のもとに遂に影を消すに至った。

終戦後の混乱も幾分静まりかけた昭和二十三年頃僅かな後日談がある。それは終戦後の電力使用の激減の反動は、逆に電力不足が深刻をなり、苦し紛れに重油エンジンを使用した頃、織姫町付近には、水車を新設使用したものであったが、水量は少なく、増減が甚だしくて使用のやむなきに至り遂に最後の止めを刺された形になった。

 その後織姫町に消防署が設置され、この南隅に作られた庭園の池に灌漑するため、消防長佐々木元吉さんの指揮のもとに水車を建造次第に整備され、今では自家発電をして点灯や充電をするまでになり、桐生の名物になりつつある事は、まことに喜ばしい限りである。

さらにその後流水の条件はますます悪くなり田植時の五ヶ月間は、水量は幾分回復するものの、水路荒廃は益々甚だしく、一方政府の食料増産推奨に、農家の努力に漸次生産需要の均衡は取れたが、昭和四〇年代に入るや、産米過剰となり、減産、減反の結果、水田変じて宅地あるいは道路となり、水路は汚濁、枯渇し下水となり、兎堰取水口は取り潰され、市街地を流れた用水もほとんど下水をなった。近き将来には、下水道工事推捗のため、せせらぎはおろか、流水も見られなくなる事必至であろう。希うところは、桐生川上流と山田川が永く、清冽な渓流の姿を失わざる事を切望して止まない。

ともあれ水路と水車が、桐生産業の裏方として役割を果たしたことは、永く桐生史の一ページを飾ることであろう。

 

あとがき

 ことしの春この一文を、計画した説きは、前原準一郎さんから依頼された、八年前から得た市内の水車だけにする予定だったが、水車には水路がつきものとの見地からこれを加えた上、栗田豊三郎さんのすすめで新市内に迄間口を拡げたので、和田秀治さん、青木忠作さん(川内町)根岸六郎さんの助力をいただき、実地調査をし乍ら書いたが、なに分にも水路は下水化し、取り潰されて跡形もなくなったりして、幾度か壁に突き当りその都度、亀田光三さんに力づけられて、辛うじて脱稿した。不徹底な箇所の数々は、大方の御寛怒を願い、お力添え下さった皆様に謹んで深甚な謝意を表して擱筆する。                               (昭和四十七年十一月)

 

 

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