水車・撚屋物語
桐生堂主人 栗田 豊三郎
精米製粉等に水車利用していた業者を桐生地方では一般に車屋と呼んだ。又、撚屋とは織物原料となる絹綿の単糸に織物に応じた撚りを加え、単糸撚、双子撚等を織物業者の注文に応じて製作する業者のことである。
以下は私独自、個人の聞書で水車を利用していた車屋、撚屋等の関係者が主である。従って誤りがあれば、私の聞き違い、書き違いであるのでご了承願いたい。
明治時代には桐生川、わたらせ川の川筋にはその用水を利用して水車をかけこの動力を精米、製粉域は撚糸の用いたものが数軒あり、中でも桐生川筋では上車(中里橋の近く)、中車(現広見橋の近く)、下車は(清水町・サイカチ原)現在東5丁目の共立会社社長柘植氏住宅あたりの処で、下車は私の誕生した家であるが、たびたび水害を受けたため、三軒の車屋の中で最初にやめました。
思えば70年も前の話で前の話で私の10歳のころです。大正5年頃になると大半の車屋が水車利用をやめました。町に電力利用の精米所が急激に増え始めたからです。
私の家では住居の続いた精米工場があって20本の杵が夜昼となく米をついていました。径1米もある粉挽臼も、挽割臼(大麦を挽き割る)も竹のタガをかけた羽グリ装置を使って回転させた、その動力源が水車だったのです。
宮本町1丁目
鈴木 由次郎談
昭和45年 75歳
相生下新田の清水門左衛門家は通称車紋でとおり伊勢崎藩の米を預かっていたので、近隣にまれな大きな車屋で幕末には既に精米業のほかに倉庫業も営んでいた。大きな水車が二基、倉庫3棟、其の外屋敷蔵もあった。
渡良瀬川沿岸(現両毛線鉄橋から下半丁程のところ)赤いし渡し桐生村側舟着場をでて少し登ったところに、倉庫があり、桐生では金子吉右衛門、吉田清助家などが多く利用していた由である。
明治中頃には車屋を廃業したので三棟の倉庫は改体し、境野村(現市内境野町殿林)の倉林倉庫(関口三四郎氏の実家で現在土田整染工場と変わっている)に譲った。 (相生町2丁目 清水英三郎)
私は昭和30年相生町天皇宿の江原織物が廃業し、鉄工業に転業の為、工場や住居を改築したが、その際同家主人江原善佐久氏から廃棄される唐紙の下張りになっていた古証文をもらってきた。
ほとんどが車屋紋左衛門の取引証文であった。私は直ぐ清水家を訪れて其の在りし日の盛況のさまを話していただいた。
現在、清水家は改築され、昔の姿は只一基の常明燈が庭にあるのみである。
これは往時、渡良瀬川船着場へ同家で寄進したもので正面に「奉納金毘羅大権現」、裏面には「文政8年清水紋左衛門」と刻まれている。
郷土史研究家前原寛臣氏が嘗て車紋の事蹟に興味をもって種々研究したが、立証すべき証文等まったくなく実体把握ができぬ儘になっていると聞いたので、前原氏に車紋関係証文2枚、清水家へ2枚おくり大変喜ばれた。
(桐生堂主人)
私は新宿上原の眼鏡橋近くに住んでいた水車大工遠藤藤三郎の養子となって、以後は水車造りを本業とした。
精米所の水車は10本、20本の臼杵を動かすので、4馬力〜5馬力の出力が必要で、従い用水の水量と落差を確実につかんだ上設計します。
精米用水車は直径18尺位で、巾は5寸8寸位が普通で、私は大物水車専門に取り組んできました。精米用に較べると撚屋、糸繰屋の水車は1,2馬力程度で小型でした。大型の水車は水力を最大限に活用出来るよう設計され、流れ込んだ水を逃さぬよう作ります。
輪の心棒に8本の阿弥陀棒、それに輪板をつけ、棚板を張って出来あがるのですが、水に強い松材を用います。
水車動力は種種その回転誘導する関係で設置場所、距離等は製作者の感に頼ったものです。私が桐生へ来た明治38年頃、その後暫くの間は、まだ現在のようなベルトは使われず、麻縄や木綿、ボロ布を太くない合わせたロープをベルト替わりに使用していました。
軸受けもケヤキや樫の木を組み合わせたものが多く、誘導距離の短いところ
ではこれで十分間に合いました。
又、中には石を磨き凹ませて、使用したところもあったが、後には次第に鉄製の軸受けに替えてきました。
昭和10年頃までは水車からの回転誘導は黒皮シャフトが多く、後には鉄製の針金・鎖も取り入れられて連結が大変楽になってきました。
広沢町1丁目2578・鉄工業
遠藤儀八談(昭和42年・76才)
大正3年頃より境野三堀に長竹政治という人が、境野精工社とよぶ鉄工処を持ち、手回し旋盤を入れて鉄器具製作を初め、三堀の川に水車を架けて、おもに鞘錘を作っていた。
(注)ツムは撚糸器には無くてはならぬもので、サヤツムは当時改良された優良品だった。
サヤツムとは刀の鞘のごときものに納められた硬い鉄線太い針状のものを管に差して糸をまくのに用いる。
主はツム作りでいつも多忙だったので「俺は野鍛冶じゃないぞ」と威張っていた。月末に集金に出かけるにも人力車で乗りつける程で大層な威勢だったが、
長竹氏株に凝り田舎にいてはかぶ相場はやれぬと、やがて東京へ転出してしまった。
足利郡小俣874 大川 英三
(軒致装置のこと)
明治年代以前より、河川から遠く離れた処では、水車利用の糸繰りは出来ず、軒致装置を用いた。
これは作業所の屋外に(主に撚場の外壁に添い、庇屋根の下に設けられていた。)石油缶ほどのものに石を詰めて重しとし、座車(木製歯車)を利用して手で巻き上げておき、自然とユルク降りてくるという巻上げと下降の力を糸繰機の動力源に応用したもので従って1たん巻き上げられたものが、降下し尽くすまでの時間に糸繰り作業が出来るように計算されていた。
これも前近代的な機屋町の風物詩の1つであった。この装置を軒致とも軒鈍とも呼んでいた。(桐生堂主人)
私の実家は境野郵便局長裏の旧道に添う古い撚屋で、元は精米に使用したという水車を持ち、直径1丈以上あり、桛5,60まわすには楽でした。厳冬の頃氷を割り水車に付いた氷を落として水流の落差を調節したりします。寒い夜中に水車のきしむ音に子供はおびえて泣き出したりしたのも、今は昔の物語です。
実家の前で用水川が二手に分かれるので、大正年代頃洪水のあとでゴミとともにたびたび水死人が流れて来て水車に曵きかかり母は近所の水車を持つ人たちと共同で、お坊さんを頼んで近くの空き地で塔婆を建て、水死人の供養を行っていました。
(市内織姫町 長沢 きぬ談)
私は桐生高等女学校への往復に大正8年でした。友人と新宿水車の数を数えてみた処、大小合わせて152台あった。これは学校へも報告した事で、正確であると思います。
(境野2丁目650 真井 とし子談)
私どもは以前、撚糸業で桐生川に近いので、ここへ堰を作り水車を回したが、
大小のたびによく堰は流されるし、水車は急ぎ近所の人手を頼んで引き上げねば流されるので大騒ぎでした。
大正10年頃、上菱だけでも水車60台といわれていました。 (昭和30年調)
(上菱607 岩野 しげ談)
わたしの家は横山町で古く、田下吉之助とよびわたしで6代目といわれ、お召し物の横糸を撚るアゲより屋の元祖と言われてます。お召し横糸撚りがあたったのは、横丁では水車が使えずはやくから八丁撚機を用いたのがよく、左右両端がつむとなっていて1台が20本、右撚り20本、左撚り20本と同時に動いてよりあがる装置です。
この八丁機が八台あり、常時10人以上雇人が働いていましたが、私の父を最後に転業しました。(田中 安夫)
(余禄)田下のお婆さの話では幕末当時、横丁上にあった桐生陣屋に、最も近い家は田下で陣屋役人にも懇意となり、罪人が処刑されるときには、其の身寄りのものが、田下家の2階から別れを惜しみ見送って無き悲しんでいたと伝えている。
田下家は陣屋(牢屋)前道路より低いところにあるので、2階からよく牢が見えたといいます。 (桐生堂)
桐生天満宮境内を横切り、道路沿いに流れる本町用水にも、柳・須田・秋田・栗原の4台の水車が回っていた。幾れも天神境内横であるが、天神裏にも池田金藤撚屋が水車を持っていたが、桐生高等染色学校が出来る時退いた。
其の先の古い撚屋篠田は居抜きのまま可能撚屋に一切を譲った。大きい水車では下山家跡に白石という精米屋の架けた一丈5尺くらいある水車が、米搗き杵10数本を動かしていた。
記録によると山同家は四国阿波出身で彦太郎が紡錘造りの職人で、江戸へ出てきたが、折角の技術も江戸ではあまり用なく、明治7年足利に移り先代藤次郎の代に桐生町天満宮前へ移ったのは私が15歳の時でした。
(山同匡太郎談)