郷土の産業に貢献した八丁撚り機の創生者
岩瀬吉兵衛・笠原吉郎
両氏の業績に感謝して供養と墓参をいたしましょう。
とき 昭和50年9月22日 午後3時
ところ 桐生市東久方町1丁目 大蔵院 50年9月22日 午後3時
ところ 桐生市東久方町1丁目 大蔵院
発起者
桐生内地織物協同組合
理事長 石原丈吉
八丁撚り糸業者代表
坪川修太郎・栗本治子
桐生の昔を語る会
代表 服部 修
主旨
桐生のお召は、高級織物として日本一の定評があります。これは業界一丸となり多年の研究努力の成果であります。しかし、織物とは決して技術(わざ)だけでなく、更にその上、真心のこもったものでなければなりません。郷土の産業に貢献した両氏の業績には教えられるものが多々あります。岩瀬吉兵衛翁の墓は東久方町一丁目大蔵院に、笠原吉郎氏の頌徳碑は新宿三丁目の定善寺(呑竜さま)に、それぞれ静かに眠られております。両氏の業績に感謝して業界も心ある市民も春秋の彼岸には墓参をいたしましょう。
八丁撚りの由来
=多数の鍾で大量に=
桐生織物の仲で特筆すべきものは「お召」でしょう。天保九年(1838)、桐生の吉田清助(尾州家御用機屋)が縞縮緬(しまちりめん)を献上し、将軍家斉公がお召しになって以来、この種の織物を「お召」と呼ぶようになった。
縮緬やお召は、在来の平織をさらに工夫、緯糸(よこいと)に強撚(きょうねん)を施して織りあげた後、適当な絞取(しぼりとり)、湯のし整理を加え、特有の絹味をもたせたもので、高級織物として珍重された。
このお召に使われる原料糸の撚(よ)り機に「八丁車」がある。織物には独特の強度や光沢や風味がなければ良い製品とはいえない。桐生では寛保三年ごろから縮緬織を生産したが、撚糸の技術は、はなはだ幼稚だった。当時は宮東(東久方町)車大工峯岸勝右衛門という人が京都西陣式に模造した紡車をつくり、かろうじて糸の撚り合わせをしていた。この機械は一本掛けで人力で車を回転するという不便があった。
そこに着目したのは岩瀬吉兵衛(下総結城郡中村)であった。吉兵衛は安永七年(1778)三十三才のとき桐生に来て、勝右衛門宅に身を寄せた。元来、手工に巧みな彼は、紡車の欠点改良を志し、自ら山城国淀に行って苦心研究のうえ桐生に帰り、天明三年(1783)水力を利用した完全な撚糸機を発明した。これを「八丁車」という。
この機械は多くの錘(つむ)を備え、一時に大量の糸かけができる。その上、水力を利用するので能率も従来のものとは比較にならず、以来、八丁車は桐生はもちろん近在にまで広まった。
吉兵衛は文政五年三月二十六日、七十七才で桐生の地に没した。その孫、笠原吉郎は祖父の遺志をついで、上枠(あげわく)の付属機械を発明するため、私財をなげうって努力を重ねた。三年目に、ついに糸の長さを決める回転時計を考察し、今日まで伝えられる八丁撚り機を完全なものとした。以来百九十数年間、二人の業績は郷土産業のため大きく貢献した。
桐生百景より 絵と文 服部 修
戒名 清山道遊居士
俗名 岩瀬吉兵衛
延享2年生
文政5年3月26日没(77才)
戒名 篤譽尚故滋通居士
俗名 笠原吉郎
文化6年生
明治11年9月25日没(69才)
◎岩瀬吉兵衛―――金七郎―――笠原吉郎―――才四郎
(笠原佐平次養子) |