奥嶋唐桟
岡本吉衛門著作(昭和52年6月25日発行・奥嶋唐桟)より抜粋
関西に生れ、関西で育った筆者は唐桟と呼ば初ている織物を識らずにいた。江戸で好まれた粋な織物、ということ位は識っていたがそれがどのようなものなのか見当さえつかなかった。唐桟を識ったのはずっと後である。
九十九才で他界した母方の祖父はなかなかの物識りで、奥嶋の話はよくして呉れた。母方の本家が呉服屋をしていたこともあり、奥鴫に就いての知識は若干ながら得ることができた。
古着屋廻りをしていた戦前、幾つかの京出来の奥嶋を買つたが凡て戦災で失ってしまった。藍地のものは殆どなく、赤地が多かった。
祖父の話では、明治から大正にかげて、奥嶋は晴れ着の中に入っており、特に、少女の晴れ着であったと云う。赤地といっても今の概念では淡赤茶になり、赤味がかった白茶も含まれる。
紺地の唐桟縞も可成り見覚えがあるが、関東で云う唐桟ともやや違った趣きの続柄で奥嶋になる。奥縞も多くは女物で、男物は稀であった。
本物の唐桟を見たのは東京に出てからのこせで、民芸館所蔵の、刺子の裏に使ってあるものの鮮やかさに目を膵り、これが男物かとさえ思いもした。
また、高島屋の地下の古物売場や、古裂屋で幾つかの小裂を集めもし、少しずつ知識も殖えた。唐桟の持つ鮮やかな縞立てと、鞣皮(なめしがわ)のような風合いは、格別の魅力であった。
・・・云々・・・・