〜川越唐桟の生みの親〜 中島久平・なかじまきゅうへい(1825〜1888)
「広報川越 No886・先人のあゆみ23」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。
http://www.ask.ne.jp/%7Ebaba/kawa-senjin23-nakajimakyuhei.html
を参照ください。
幕末の開港当時、横浜に出て絹織物商を営んでいた中島久平は、欧米から輸入される唐桟(とうざん)に対抗して外国産の絹を川越に送り、唐桟を生産させました。これが「川越唐桟」として名をはせ、川越は幕末から昭和初期まで手機(てばた)による唐桟の産地として有名になりました。
中島久平は、文政(ぶんせい)八年(1825)に志義町(現在の仲町)の絹平(きぬひら)「正田屋」の当主・中島久兵衛(きゅうべえ・二代目)の長子として生まれました。
川越では、江戸時代の中ごろから絹織物が盛んになりました。当時のせいたく品だった絹織物は、川越商人によって江戸に送られるとともに各地の農村からの需要もあったため、大きな利益をもたらし、後々まで呉服店として名を成した豪商を何件も輩出してきました。
久平は、早くから江戸に目を向け、日本橋にも店を出していました。安政(あんせい)六年(1859)に横浜が開港し、貿易が始まると、外国商人との取り引きを考え、地元や秩父方面の正絹を染色し、外国商人に送りました。
その代わりに金巾(かなきん・固く細かく織った薄い綿布)や唐桟などを入手し、外国の商法や海外の動向を探っていましたが、外国産の唐桟が国産のものよりはるかに良質で低価格であることを知り、欧米産綿織物の恐ろしさを痛感。
このままでは、わが国の綿織物はたちまち滅んでしまうと予想しました。そこで、久平は、安くて良質の綿糸だけを輸入し、それで唐桟を織ってはどうかと考えました。
唐桟は、室町時代ごろから日本に入り始めた、紺地に赤や浅黄、茶、灰などを縦じまに織った綿織物。「唐」は外国から来たものの意味で、「桟」は「桟留(さんとめ)」の略で織物の輸出港だったインド西海岸のセント・トーマスから来ているといわれています。
織り上げた唐桟を砧(きぬた)で打って仕上げたため、絹のように美しくしなやかで、日本人の好みに合ったすばらしい織物でしたが、入ってくる量が少なく、庶民には手の届かないものでした。
久平は、横浜で洋糸を買い、川越地方の機屋に試織してもらいました。結果は上々で、値段も輸入唐桟よりはるかに安く出来ることがわかりました。「これだ」と決めた久平は、大量に洋糸を買い込み、川越地方の機業家に唐桟を織らせました。
もともと絹機(きぬばた)のすぐれた伝統があった川越地方のこと、工場や農家の副業的な賃機が主力だったとはいえ、すばらしい品質のものが大量に織られました。久平は、この唐桟を売りまくり、「川越唐桟」の名が世に知れ渡り「川唐」としてもてはやされました。
しかし、川越ではいつまでも手機に頼り、機械を入れなかったため、「川唐」は明治二十六年の川越大火があったころから、急速に衰退していきました。
久平は、明治二十一年(1888)に亡くなりました。川越大火の五年前でした。
■「先人のあゆみ」は、「川越の人物誌・第一集」(川越市教育委員会発行)、「川越の歴史」(川越市発行)、「川越市史第四巻近代編」(同)を参考に、広報課がまとめました。