こうして産声をあげた織塾は高い技術を持つ人たちのネットワーク化をめざし、しかも単なるネットワーク化ではなくお互いの技術を公開・交流させ、そのなかでの熱い摩擦熱を期待し、会員や産地のレベル向上をはかりたいとしています。
また、ものづくりを共に考え、苦しみ、楽しみたいそんな人たちを集結させたい。そして織物で自分の心の何かを表現したいがその技術が十分ないという人たちには、技術伝習の場所も提供しようというものなのです。
桐生は織物産地としての長い伝統もあり、ほかの産地ではみられないほどの多種多様な製品をつくり出せる技術と幅広い分業体系が整っています。何かつくり出したいという人にとってはまたとない街なのです。しかも東京から一〇〇q圏内です。
この話に「ハイテクとファッションの街」をうたう桐生市の創作工房制度がバッティングしてきました。
桐生の今は使われていないノコギリ屋根の古い工場や建物を、作家に工房として提供し創作活動を援助しようというものです。
織塾はその第1号に指定されました。織塾として借り受けた建物は二〇〇年近く経た古い家で、桐生のマニュファクチャーの口火を切った「成愛社」をつくった青木家の木造二階建ての昔ながらの家です。
織塾を訪れた人は一様に江戸時代に逆もどりしたようなこの家に驚きの声を上げます。この織塾への道は、友禅流しもついこの間まで風物詩となっていた清流桐生川をさかのぼり、梅田の山々を左右にみて歩を運び、茶畑、梅林を分け入ると、古いけやき造りの織塾の門が見えます。
玄関を入ると正面上方の壁には槍などの武具、真っ黒な上がりはな、一尺以上ありそうな大黒柱、板戸、引出し付きの箱階段、囲炉裏、かまどなどなど、家全体がそっくり文化財のようなものです。
そして裏には動力用水車場跡やそれに流れる小川があり、ここは夏でも涼しい別天地です。発足当時から見学者も多く、いまや観光名所みたいにさえなってしまった感のある織塾ですが、かつて明治13年、当時中国からの輸入でしか手に入らなかった朱子織物の一貫生産を手がけ、今日の桐生織物の先駆けとなったのがこの場所で、いまその先駆性を織塾が受け継ぐこととなったのです。ここには武藤コレクションも数多く並んでいます。
また、その一角は手織の工房になっており、塾生が思い思いの制作にチャレンジしている姿が見られます。たとえば塾生の一人腰塚さんはエジプトの古いガラスの首飾りに魅せられ、その配色を縞織物にイメージして手織と格闘しています。ここでは伝統的な技術を用いて個人個人が、美の表現を織物を借りて行っているのです。
武藤さんのライフワークの一つがこの縞織物の研究です。その膨大な収集品の一部は一九九一年11月「縞展PartT」として公開され、東南アジア、アフリカ、ヨーロッパの民族衣裳から、桐生お召しの明治・大正・昭和のサンプルをはじめとする日本の縞など、三、五〇〇点が展示されました。新しい縞の創作も紹介されましたが、これらは前述の「縞展PartU」に受け継がれました。
縞展にあたり武藤さんはこう語っています。「私と縞織物との出会いは群馬の特産である館林縞織物でした。産地指導の中でだんだんと惹かれていったのです。また群馬には滅びる寸前の中野絣との出会いも鮮烈でした。縞は二色以上の色を直線で区切っただけのパターンであるため縞の設計は難しく、売れる縞、売れない縞が極端に現われます。
単純でも時代性が求められ、自分自身縞作りの発想をどこに求めるか一生苦しむことになるでしょう。現代社会は情報時代であらゆる色、形が氾濫しています。鋭い直線だけのデザインである縞にはやすらぎさえが感じられます。かつて遠く異国から運ばれた縞織物ですが、私は関東に生活する人間として、江戸の町民、庶民の美意識であった粋(いき)に共鳴し、その粋の最たる縞を自分のもの作りの中に組み入れたいと思っています。」
武藤さんは江戸時代の理想の概念の一つ「粋」を、現代の新しい美意識のなかで再登場させようと考えています。
また、同年3月にはフィンランド、カナダ等の「北の国の布展」を開催、普段われわれになじみの薄い織物や織道具も見せてくれ、次のように語っています。「ものを作るのは人間の本能です。しかし産業革命以後急速に発展した織物工業は工程が分業合理化され、人間が愛着をもって、そして苦しみながら楽しみながらもの作りをするという心を失ったようです。フィンランドやカナダでは長い冬を家の中でもの作りをします。それが生活に密着した手工芸の発達した理由なのです。
産業革命以後の大量生産は製品の販売流通にばかり目が向かい、とかくもの作りがおろそかになったといえるでしょう。伝統的な技術が残りにくい今、我々がそのもの作りの原点に立ち戻りリードする時代なのです。それが織塾の役目でもあります。」