黒幣の天狗

桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。


境野町1丁目

「甚之助様がおいでになられてからは、了清坊も生まれ変わりましたなぁー」
「つい先だってまでの荒れ庵がウソのよう。ほんとうに立派になりましたな」
人々が目を細めて噂しあう清了坊は、桐生・新町の新川沿いに建つ庵であった。

この清了坊には、これまでに何度となく僧侶が住みつきはしたのだが、川辺に位置するため、新川の増水の度にいためつけられ、とうとう住む人もないままに、つい最近までは、朽ちるにまかせた荒れ庵となっていた。

それがいつの頃からか、甚之助と名乗る一向宗の布教僧が住みついて、数人の信徒と一緒に布教活動を始めたのである。
甚之助の熱心な布教の成果で、やがて清了坊を訪れる人も出、ご本尊の阿弥陀如来に両の手をあわせる信徒の姿が、日を追って数を増していった。
この信徒の増加にともない、荒れ庵にも少しづつ少しづつ手が加えられ、近所の人たちの話題になるほどに、すばらしく立派な庵となったのである。

この発展ぶりに意を強くした甚之助らは、近々に了清坊を譲り受けたい旨を、本寺・浄運寺に願い出ようと話合った。

ところが皮肉にも、その話し合い後間もなく、たいへんな豪雨が桐生・新町を襲ったため、新川はたちまち増水して赤い牙をむいた。そして、立ち直った了清坊を「アッ」と言う間にのみこんでしまったのである。

長い布教の苦労が実り「もうひとがんばり」と希望に燃えていた甚之助師らには、この悪夢のような洪水は大きなショックであった。
だが、それは有頂天になりかけた甚之助師らへの戒めであったのかもしれない。

洪水から数日後、落胆して立ちつくす甚之助師のもとに、朗報が届けられた。
それは「小俣の河原でご本尊発見」の報せだった。
落胆しきっていた甚之助師らに、再布教の希望がわいて来たのは言うまでもない。

見つかったご本尊は、右手こそ失ってはいたものの、奇蹟的にも他の損傷はまったくなかった。その上に時を同じくして、境野村の一信徒が本尊安住の地の提供を申し出てくれたからなおさらだった。
「新しい寺ができる」
新たな目標に向かって、甚之助師らは汗まみれ泥まみれの作業もいとはなかった。
整地作業もかなりはかどったある日の事だった。一人の信徒が「オヤッ?」と首をかしげてその場にしゃがみ込んだ。「どうしたんだね。」
一緒に働いていた数人が走りよって見ると、土のなかに人形の手のようなものが埋もれていた。

「もしや、それは・・・」
人々の頭の中に、右手を失ったご本尊の姿がチラリとよぎった。掘り起こして土を洗い落してみると、金泥塗彩の右手でだった。
その右手はさっそく甚之助師のもとへ運ばれた。甚之助師は、それを一目見るなり驚きの声をあげ「まぎれもなくご本尊のものじゃ」と叫んだ。
そして、「それにしても不思議、これこそまさしく仏のお導き。有難いことじゃ」と静かに合掌された。

このことが作業中の信徒に伝えられると、人々はその不思議さに心を打たれ、作業にいっそう励んだのだった。
境野村(現在の境野町1丁目)に永住され、衆生に仏の功徳を与え続けて来た本然寺本尊・阿弥陀如来が、あの時修復された「話題の主」なのである。


本然寺(ほんねんじ)

真宗大谷派の寺で殿林山・本然寺と称する。安政元年(1854年)十一月に開創されたもので、この伝説の主人公・阿弥陀如来像は寺宝とされている。本山は京都東本願寺。
初代・頓成上人は、農家ながら名字帯刀を許された家柄にうまれた。成人して、上野山の戦いに参加し、人を殺めたが、菩堤心から得度をした上、知人を頼って桐生にやってきた。

そして境野村万光寺(廃寺)で修行して本然寺の開創に至ったと言う二代目住職・観了上人が幼少のころ、大病を患い、暖をとる必要からこたつの穴を掘ったところ、本尊の右手が発見されたと言う伝も寺に残されている。
なお、頓成上人と甚之助師が同一人物かどうかは定かでない。

郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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