黒幣の天狗

桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........

広沢町7丁目
初午まつりを欠かさず行っていた家が奇蹟的に焼け残った。

明治の御代も半ばを過ぎたある年のことだった。ちらほらと冬の便りも聞 こえてくる十二月の初旬。この日は、旧のゑびす講の日とあって、近隣の 人々は、着物のえりに顔を埋めるようにして寒空の中へ飛びだし、夜のと ばりの中へ姿を消していった。

ここ、広沢村の若い衆や男衆も、忙しい野良仕事が一段落したこともあっ て、互いに声をかけあい、誘い合って、にぎやかに隣村の足利のゑびす様 へと繰り出していった。
村の衆にとっては、この祭は一年の疲れを癒す待望の夜だったので、夜が 更けるころには、さすがの広い村の中も女子供だけが取り残された形にな った。

そんな時と言うものは、得てして事件がおきるものである。 突然、月桂山、東沢寺(曹洞宗、慶長二年八月創建、聖観世音菩薩を本尊 とする)から火がでて、男衆の留守の家々を猛火となって襲った。
=明治 二十五年十二月七日の夜との記録があり、一本木大火とも称する=
当時はわら屋根の家ばかり。突然の猛火の襲来には、ひとたまりもなかっ た。女子供たちは、身の回り品を持ち出すのさえやっとの思いと言うあり さまで、文字通りの、着のみ着のまま、命からがら高台に避難した。

高台から、村の安否を気遣いながら見下ろす人々の目には、大きな火の粉 を吹き上げて崩れ落ちるわが家の様が、否応なしに飛び込んできた。 暗闇の中をとび回る猛火の乱舞は、まさに地獄絵そのものであった。 人々は、恐怖におののきながら、その夜は、まんじりともせずに朝を迎え た。

眼下には未だ白い煙をあげてくすぶり続ける家々が広がっていた。昨夜ま では、家族団らんの楽しい一時を保ってきた、愛すべきわが家が、跡形も なく消えてしまったのである。
無念さ、やるせなさに打ち沈む人々のまわりには、時々焼け焦げたきな臭 い風が吹き上げて、夜明けの明るさとはうらはらに、いっそう村人の気持 を暗くするばかりだった。

ところがである、突然、異口同音に人々の間から驚きの声があがった。
「あれ?あれは家じゃねえか」
「ほんに。あの猛火に焼け残った家があるぞう。」 「ああっ、あそこにも焼け残った家がみえる」
人々の悲しみを静めるかのように、この日の朝は、実に深い霧が辺りを覆 っていた。その霧が、日の出とともに徐々に晴れ始めた時に、この驚きの 声が上がったのである。

この夜は村のほとんどとも言える家々、三十数戸が焼け落ちて、白日のも とに無残な姿をさらけ出していた。にもかかわらず焼け残った家がーーー 人々は一斉に高台から駆けおり、朝つゆを蹴散らして、くすぶり続ける村 の中へ走りこんだ。

猛火の中で焼け残った家は、数戸。それだけでも奇蹟だと言うのに人々が 走りよってみると、なんと焼けこげ一つつけずに、昨日の朝の状態と同じ 姿で村人たちを迎えたのである。

人々はキツネにつままれたような気分になった。いまだ夢でも見ているの ではないかさえ、自分の目を疑ってみた。しかしその不思議さは現実だっ た。「不思議な事もあるもんだな。」「よっぽど運のいい人の家なんだろ うよ。」と、ただただ驚き入るばかりであった。

しかしつぶさに調べて見ると、この焼け残った家々には、一つだけ共通す ることがあった。

それは、どこの家も毎年欠かさずに初午を行ってきたと言うことだった。 人々はこのことを聞いて、改めてびっくりすると同時に、何かしらジーン と心のうちを走りぬけるものを感じとったのである。

大火のあと始末が一段落すると、村人たちは一人二人と火元だった東沢寺 に集まって、その境内にあった稲荷社を近くの山腹に移した。そして「稲 利大明神」と名づけ、旧二月初午の日がやって来るごとに、村をあげての 盛大な祭を行うようになった。
今に伝わる「広沢7丁目の初午の由来」である。

参考
東沢寺(とうたくじ)(広沢町7丁目)

曹洞宗の寺で、山号は月桂山。慶長二年(1597年)八月に創建された。

伝説の大火は世に言う「一本木大火」で明治二十五年十二月七日に発生して いる。この時は三十数戸を焼失との記録がある。寺はもちろん焼失したが火 元であったことから再建がおくれて復興したのは実に三十年目であったと言 う。

郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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