黒幣の天狗

桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........

境野町2丁目
名家 桐生氏の滅亡秘話

天正元年(1573年)三月十二日・・・。水争いから端を発した桐生 ・由良両家の合戦は、名家桐生氏の滅亡という結果で終わった。桐生氏 の敗戦の原因は、家中の不和であったと言う。

桐生氏を滅ぼしたその後の由良氏の落武者狩りは、それはそれは、異常なまでに厳しいものであった。
このため各所に桐生落城秘話を残している。領主・桐生親綱公の脱出後 の心労死。奥方の金沢・鏡岩近くの山中での自刃。姫君の上菱付近での 行方不明。そして合戦場での家臣の自刃等々がそれである。

ところで、殊に厳しい詮議の目が注ぎ続けられたのは、境野原だった。 境野原に注意力が向けられたのは、それなりに理由があった。桐生城主 ・親綱公は、佐野の出である。その親綱公が落城後も行方知れずで、あるいは、このあたりを通過するのではないかと予想がたてられていたか らである。
なんとなれば、境野原は桐生と佐野を結ぶ交通の要路であったのである。 また、この地は、かつて桐生氏の刑場地であったし、桐生氏若君の乳母 の出身地でもあった。
こういった諸々の条件から、昼となく夜となく、由良家の将兵の姿が、 この地には絶えなかった。

そのころ由良氏の厳重な警戒の目を逃れて、小さな沼のほとりのアバラ 屋に、身をひそめて隠れ住む老婆と幼子がいた。殊に老婆の落ち着かな い目の動き、何かを恐れている様子を除くと、姿こそやつれてはいるも のの、どこか品の良さが感じられた。
それも道理、幼子は、実は由良氏が血眼で探し求めている桐生家若君で あり、老婆はその乳母だったのである。

隠れ住むこと数日・・・はじめのうちは、乳母の用心深い行動と機知とでなんとか追手の目を逃れていたが、ひしひしと迫る危機に、乳母は最 後の時の近い事を感じとっていた。
「このままひそんでいて、由良の追手に捕えられては、桐生家の恥。い っそ、ナワの目の恥をさらすよりは・・・」 乳母は意を決すると、若君を胸に抱きかかえるや、そのまま一散に走り だして、小屋の前の池に入水してしまった、そして激しい水音を上げる と、若君も乳母も二度と浮かび上がってはこなかった。 やがて里人は、この悲運の若君を「若宮八幡」としてその池の近くにま つった。

何年か後のことであった。
この池は埋め立てられ、やがて田に姿を変えた。しかし、この田を耕作 すると、なぜか重い病気にかかったり、ひどい時には死者も出すように なってしまった。
この事から里人は「ここを耕すと、桐生一族の霊がたたるぞ」と言って 耕作をやめてしまった。そしてその地に「死田病田」と言ういまわしい名を贈り、雑草の伸びるがままに長い期間放置をしてきた。

明治を迎えて間もなくの事である。この土地付近で草刈りをしていた新井某が、自分の鎌でもってあやまって大怪我をしてしまった。

近所の人々は「あんな場所で仕事なんぞするからだよ」と囁き合った。 けれどもおさまらないのは新井某である。若君をまつる若宮八幡にやっ てくると、「たとえどのような事があれ、何のかかわりもない私が、こんな大怪我をさせられるいわれはない。私の怪我は、あなたの力で、一 週間以内に治して欲しい。もし不可能ならばこの社を取り壊してしまう」と憤満をぶっつけた。

誠に無理難題であった。が、新井某の大怪我は、人々の驚きをよそに一 週間で完治した。
この事実を新井某は、若宮八幡に過日の非礼を詫びるとともに、お礼にと自分の体験を近隣に伝えた。
そのため若宮八幡は霊験あらたかな神として、たちまち近隣に知れわたり、多くの参拝者が訪れるようになった。

この新井某事件ーー。怪我の完治と言う一連の経過からこれまでの「死田病田」と言ういまわしい名に代えて「福田」と言う立派な名が贈られ 若宮八幡も「福田八幡」と呼ばれて、人々の一層の崇敬を受けるように なった。
「死田病田」の悪名をはるか彼方へと押しやった、悲運の若君の美しい 伝えが、この「福田八幡」伝説なのである。

参考
昭和61年夏、たちのきを迫られて、境野町5丁目(松宮)金子利夫氏 宅に移転した由。。

郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

目次へ戻る

Copyright(C) NPO:KAIN
〒376-0046 群馬県桐生市宮前町1丁目3番21号
npo@kiryu.jp

\