黒幣の天狗

桐生から古く伝えられる 民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........


大同掘の石橋(だいどうぼりのいしばし)

広沢町一丁目


[もどる]

粗末な木橋は川が荒れる度に流されてしまう。愛宕神の水鉢の残りの石で造った石橋がみんなの難儀を救った。

県道桐生ー伊勢崎線沿いのある魚仙商店と鳥島モータースとの間を抜け、ミツバ電機の脇へと一筋の小川が流れる。春の日差しに水面をきらめかして流れるこの小川を、土地の人たちは大同掘(広沢用水)と呼ぶ。

大同掘の上流は、県道沿いの舗装の下に入ってしまい、今でこそ暴れることを忘れてしまった静かな小川になってはいるが、その昔は大変な荒れ川で、少々長雨があろうものなら、たちまち渦巻く濁流と化して暴れまわり、土地の人たちを困らせたものだった。

当時、大同掘には粗末な木橋しか架けられていなかった。桐生ー伊勢崎間の往来には欠かせない重要な橋だったが、川が荒れる度に、架けても架けても橋が流失しまうからだった。粗末であるがために流されたのだろうが、一旦木橋が流失すると往来が止まってしまうため、土地の人たちだけでなく、旅の衆の難儀も大変で、共に困らされ続けたのである。その上、荒れ川と粗末な木橋の組み合わせは、木橋から落ちた子

供たちの尊い命をも奪い取ることとなり、一時は近所に子供がいなくなるのでは・・・と心配させられる程だった。

それがある時、粗末な木橋に代えて、立派な石橋を架けてくれた人が現われたのである。相生村(現在の桐生市相生町)に住む森田十兵衛さんだった。

十兵衛さんは、愛宕神の所望通りに、裏山から掘り起こした大石で愛宕神社に大きな水鉢を作り、石垣や参道までも新しくしたが、、まだかなりの量の石が残っていた。「何かよい使い道はないものかな」と思案を重ねていた十兵衛さんの頭に、フッと常々人々を困らせ続けている大同掘の木橋が浮かんだのだった。

架けかえ工事は、直ちに始められた。そして、間もなく大同掘に、素晴しい石橋がお目見えした。以来、大同掘がどんなに牙をむいて暴れても、もう橋は流されることはなく、往来を閉ざされることもなくなった。もちろん、子供たちが川に落ちて生命を失うこともなくなったのである。いずれも十兵衛さんの奇特な心のお陰であった。

土地の人たちは、橋のたもとに橋供養塔を建てた。この建立は渡橋の安全を祈願したものだったが、一つには十兵衛さんへの感謝の気持ちを形で表わしたものであった。

あれから幾星霜・・・時代は変わり生活も変わった。そして、近年道路改修工事も行われて十兵衛さん心づくしの大同掘の石橋は、その姿を県道の舗装の下に隠され、大同掘そのものもすっかりおとなしい小川に変身させられてしまった。

この大きな変化のため、十兵衛さんの奇特な心の伝承も、今は遠い彼方へと押し流されて、人々の記憶から消え去りつつある。環境整備が進んで、少々の大雨や台風くらいでは、川の守りはビクともしなくなった現代だが、雨の降る度に不安と恐怖におののいていた先人の生活を偲ぶためにも、また、現代に生きる幸せに感謝するためにも、この伝承は、なんとしても後世に生き生きと伝えていかなくてはならない。それは現代の幸せを享受している私たちの責任なのである。


参考

大同掘(だいどうぼり)

渡良瀬川から取水し、広沢町内をとうとうと流れる広沢用水を大同掘と呼ぶ。森田十兵衛が架けたと伝えられる石橋があったのは、錦桜橋方面から進んで国道122号線に接する少し手前、魚仙会館と鳥島モータースの間の県道部分だと言う。現在は、県道の下に入ってしまっているとかで、まったく石橋の姿を見る事はできない。


郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

[もどる]
copyright (C) 1997 KAIC & K.Yoshida

Copyright(C) NPO:KAIN
〒376-0046 群馬県桐生市宮前町1丁目3番21号
npo@kiryu.jp

\