![]() ![]() ****************** ![]() 桐生天満宮御開帳の臨時大祭は嘉永5年(1852年)から昭和36年(1961年)までの約110年間に計8回、不定期に開かれている。各町内では巨額の費用を投じ、人形の美しさと動きの巧妙さ、趣向のおもしろさを競ったからくり人形芝居が行われてきた。 ![]() ![]() 今回見つかったのは、昭和3年に天満宮境内で上演された「宇治川の戦陣」。斉藤さんは「機神さまに向かって、間口ニ間か二間半くらいもある大きな小屋がかかった。右手に木曽義仲軍が陣取り、左手は義経の軍勢。青く染めた羽二重が動いて川の流れを現していて、名馬「いけづき」と麿墨「するすみ」に乗った佐々木信綱と梶原景季が先陣争いをする。馬が川を渡り切ったところで幕。そうですね、十分か十五分くらいだったかな」と思い出す。 動力は「水車」 動力は水車だった。当時は天満宮境内から本町通りの西側を盛運橋まで、水路が流れていたのだ。人形自体の動きは水力のせいかあまりなく、武者が首を回したり、義経の右手が上下するくらいだったという。それでも鎧兜(よろいかぶと)や弁慶の七つ道具まで精巧に作られ、歌舞伎役者をモデルに表情もリアルな人形は、当時の表現だと「美術的演芸活人形」。残る写真が示すように、老若男女黒山の人だかりで飽きず眺めたに違いない。 ところで人形の一部のみ、5体と馬一頭が斉藤さん宅にあったのはなぜか。「祭りの経費が足りなくなったので、終わってから競売にかけたんです。うちは400円で買ったといいます。」と明かす斉藤さん。 昭和6年当時だと総理大臣の月給が800円。繊維工場の女工の日給は平均85銭9厘だから466日働かないと400円にはならない。石炭・綿糸商だった斉藤さんの父、重三朗さんは、懐が暖かかっただけでなく、謡、仕舞をやった粋人でもあった。 この「宇治川の先陣」は昭和8年ごろ、桐生の本町4丁目にあった松坂屋を通じて上野松坂屋で、翌年には名古屋の本店にもT出張Uしたそうだ。そして斉藤さん宅では専用の大きなガラス箱をつくり飾っていた。昭和36年の御開帳に米福の人形師が来て、飾り付けが遅くなって斉藤さん宅に泊まった際、対面し「先代が作ったものだ」と感激したという。「今作れといわれても、いくらかかるかわからない」とも。 あと20体不明 そんな貴重な人形だが、主役の高綱、景季をはじめあと20体ほどは行方不明だ。譲り受けたからくり人形研究会では「最初に見たときは古い五月人形かと思ったほどよくできている。まだ旧家にしまわれている可能性もある」と、情報提供を呼びかけている。 ****************************** 連絡先は山鹿会長(電22・3374) |