コロムビアローズ、朝倉ユリの人形が代わる代わる歌った「羽衣」(天満宮) いまお盛りの遊女「揚巻」と、男の中の男「助六」(本町三丁目) 「赤穂義士討入」表情もりりしい大石内蔵助(本町一丁目) |
桐生に残っていた「からくり人形」が、江戸の系譜を引き継ぐ庶民の娯楽の本流で、日本の芸能史を語る上で欠くことのできない貴重な資料であることがわかってきた。しかも数がまとまり、背景の装置や小物、引き札、当時の写真など関連資料もそろっていることは「奇跡に近い」という。このほど調査に訪れた国立科学博物館理工学研究部の鈴木一義さんや人形の研究者らは口々に絶賛し「国の重要文化財になりうる」と高く評価している。これらは31日からの桐生ファッションウィーク中、有鄰館で展示公開される。会期中にはさらにいろいろな分野の研究家も訪れる予定だ。 からくり人形は桐生天満宮の御開帳にあわせて開催された臨時大祭で、付祭りとして各町内に飾られ、大正時代までは水力で、以降は電力で動き芝居の一場面を演じた。御開帳自体不定期で、昭和に入ってからは3年、27年、36年に行われ、以降見ることはなくなってしまった。 「巌流島」「羽衣」など5組を確認 現在は天満宮、本町1、3、4丁目に残る「巌流島」「羽衣」「赤穂義士討入」「助六」「曽我兄弟夜討」の5セットが確認されており、からくり人形研究会(山鹿英助代表)が発掘調査をすすめているところだ。 このほど市立郷土資料展示ホールで行われた研究会には、国立科学博物館の鈴木さんほか、西洋人形の研究者である中村公一さん、吉徳資料室長の小林すみ江さん、天理大学附属天理参考館学芸員の幡鎌(はたかま)真理さん、横浜人形の家の元学芸員辻村さわ子さん、昭和女子大学大学院生の大滝昌世さんも参加。人形の詳細をつぶさに見た。 これらは幕末から明治にかけて浅草奥山の見世物興行が大ヒットした生人形系で、一体一体違うリアルな表情をしている。衣装もよく、ディティールに凝ったつくりとなっており、からくりも高度だ。演目の題材もしっかりしている。 当時の先端技術や新素材を導入 古くは中国から入って独自の発展を遂げたからくりは、幕末、西洋技術と混然一体となり、当時の先端技術だった。また例えば「巌流島」の船頭さんの腕はボール・ジョイントをゴムで四カ所とめており、「かつての新素材を使った、日本では見たことのないジョイント」だそうだ。からくり芝居はそうした近代技術を庶民層に普及させるにも、最も力があったという。鈴木さんは「桐生の機(はた)の技術が入っていると見ていい」と語る。 明治27年の演目については「桐生天満宮大祭典飾物全図」の引き札が残っていて、生人形師は浅草の竹田縫之助ということが判明している。浅草で演じたあと、桐生に移され使い回したと見られる。庶民のものだった文楽が芸術になり、木彫り職人が高村光雲のように彫刻家になっていく一方で、こうしたからくり芝居や人形職人は芸術の枠内に入れられることなく消えていった。「最も庶民的な娯楽だった本流のほうが、いままで語られることなくきてしまった。それが桐生に、当時の姿そのものとしてある「のだ。 桐生には本町4丁目の鉾(ほこ)人形、松本喜三郎作のスサノオニミコトも存在する。「からくり人形だけでもまちおこしができるほど。桐生は人形のまちとして、日本中から人が呼べます」とも。それも「財力、技術力、すべての要素があっての桐生にあるのです」……。 先人の貴重な遺産を誇りとして、将来に生かさない手はないだろう。
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