クラクラ日記(坂口三千代著)(クラクラ日記より)昭和42年3月25日発行
私たちが移住した年は丁度、天神さまの御開帳、二十年に一度のお祭りをする年にあたっていた。
ひっこし早々に町会の人がおとずれて、寄付の申し入れがあった。表通りに住んでいるあなたの家の割当は何万ナニガシであると金額が決まっていた。寄付というものは、志のものだという観念があるからちょっと驚いたが、更にそれが月賦で良いということなので、ますます驚いた。
合理主義といおうか、はっきりしているといおうか、伊東の街の感じとはこの辺から大分ちがうという印象を受けた。坂口に話すと、ほう、と云って驚いたようだが嫌な顔はしなかった。むしろそのはっきりさ加減が面白いような顔をしていた。
天神さまのお祭りは盛大を極めていた。多額のお金が掛かったであろうことは一目瞭然だった。
京都からオイランを呼んだ。黒塗りの丈の高い十センチ以上もある一本歯のゲタをはいて、大きく結いあげた髪に角のような飾りをいっぱいつけて、禿をひきつれ、新造、男衆をおともにして、何組か、歌舞伎に出て来るような調子で本町通りを練り歩かせた。書上氏の事務所が、オイラン一行の休息所に割りあてられていたから、元禄風の大きな門をオイランが入って来るのを私は庭で見ていることが出来た。
他には、本町通りの一丁目おきぐらいに人形芝居の屋台が置かれていた。その屋台も人形も精巧を極めたものでお人形が電気仕掛けで動き出し、芝居の一カットを演じる仕掛けになっている。
書上邸の直ぐまえに、つまり私たちの住んでいた家のまえに「牛若丸と鬼ベンケイ」の人形芝居がかかり、童謡の「牛若丸」の唄が、スピーカーから極大の音で、朝から晩まで鳴りひびいた。
電気仕掛けの牛若丸が、舞台の(これがまた実によく出来ている)端から、横笛を口にあてて、ツーツーツーと出て来る。もう一方の端からベンケイが長い薙刀を持って背中にいっぱい武器を背負い込んで、これもまたツツツーと出て来る。五条の橋のランカンで向き合うとピタリと双方が止まって、ベンケイは牛若丸に切りつける。牛若丸はランカンに飛び上り、ベンケイが謝って、おしまい。牛若丸もベンケイも舞台の袖にひきかえし、また初めっからやり直し。こういう単純な動作の繰り返しというものは、見物の大人をも幼い放心に誘う。見物の大人も、子供と同じようなポカンとした顔をして、暫らくはそう云う繰り返しを眺めて行った。
源氏物語には笙、ひちりきのレコードが鳴っていた。あと思い出すのは助六。全部で六ヵ所人形の舞台が掛けられた。その他には山車、おミコシ。
このお祭りのとき、坂口はちょうど、締切りのせまった原稿をかかえていた。朝早く、五時半頃に起きて仕事をし、八時頃、私が食事をするときお酒を飲んで寝てしまい、夕刻頃に起きて夕食を一緒にしてまた仕事を始め、深夜までする、というのが、だいたいの坂口の習慣だった。これは、ときどき仕事の調子で狂うこともあって、二十四時間、ぶっつづけに書いて、翌日お酒を飲んで二十四時間眠ってしまうこともあった。
「牛若丸」の唄は坂口の大切な睡眠時間を奪ってしまったので大いに困却した。夜寝て、昼書くにしても、昼寝て夜書くにしても、どっちみち大きな音が邪魔をして、頭痛がすると云っていた。
幾日ぐらい、この「牛若丸」の唄が続いたのか、延々と長かったという記憶がある。
このお祭りは、桐生の不景気かぜを吹き飛ばす願いもこめられていたのではないだろうか。二十年毎にいつでもこんなに盛大にやるのだろうか。お祭りがすむと、ヤケに静かに、ひっそりと街は落書きをとり戻した。
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