有名な活人形が2体もあり驚きである
東京大学大学院人文社会系研究科助教授
木下 直之氏
兵庫県立近代美術館に勤めていたころ、私は「日本の美術の19世紀」という展覧会を企画しました。 江戸時代から明治時代の文化がどう断絶し、どうつながっているのかを考えていた中で、島霞谷という人物の存在を知りました。 写真と油絵は、幕末の同じ時期に西洋から伝わってきたものですが、島霞谷という人はその両方をやっていたので驚き、早速桐生の島さん宅を訪ねたのが今から12年前のことでした。その時山鹿さんとお付き合い戴き、今日まで続いておるわけです。その後も活人形やら、からくり芝居など、桐生から珍しいものが次々に出てくる。今回で7回目の訪問になります。そこで桐生からくり芝居以外でも少しして見たいと思います。幕末の日本に西洋の文物がドットおし寄せて来た時、島霞谷はその最前線にいて、その文化を吸収していた人です。黒船に開港を迫られた幕府は開成所(後の東大につながります)を開設、そこにいた霞谷等に対応させたので霞谷の遺品は、当時の様子を伝えるたいへん貴重なものです。 来年アメリカで本格的な日本の写真展が開かれます。勿論、島の写真も出品されます。 霞谷は明治3年(1870)に亡くなっているので、多くの資料が幕末のものです。この夏、札幌の北海道立開拓記念館では「描かれた北海道」という展覧会に松浦武四郎の「石狩日誌」という本が出品されていましたが、霞谷はそこにも挿絵を寄せています。 幕末の江戸にいた霞谷にどのような情報が集まり、どのようなネットワークがつくられていたのか興味深い問題です。 さて黒船来航の嘉永年間から幕末、明治にかけては活人形師が活躍した時代です。しばしば、からくりが組み合わせられましたが、松本書三郎と安本亀八は等身大で、今にいう蝋人形のような人形を作り、見世物にして好評を博しました。桐生にはこの二人の人形がどちらもあるということは、とにかく凄い事であります。二人は熊本の出身です。来年には熊本市は熊本市現代美術館で「活人形展」を開催するようです。今外国に流出した二人の作品の調査に当たっておりますが、日本国内にはほとんど残っていないのです。 祭りの造形には、たとえ祭りが途絶えても、山車などのように博物館に残されているものと、祭りが終わると同時に壊されてしまう 「つくりもの」などがあります。 戦後の政教分離対策により一行政が宗教的な無形文化財保護に手をこまねき、又は調査に支障を来した時期がありました。桐生では昭和36年まで続いてきた御開帳が何故絶えてしまったのか、それ以前も何故不定期の開催であったのかなど、いろいろ知りたいことがあります。 したがってこれからも、桐生市からは目が離せません。からくり人形保存会各位のご健闘を祈念いたします。
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