「桐生の屋台からくり人形舞台」の日本のからくり人形における
歴史的位置と意義について銀の鈴舎宇野 小四郎氏
1 からくりの系譜
桐生のからくり人形といわれるものは、どんな性格のものだろうか。それは日本の
伝統的からくり人形とどんな関連を持っているのだろうか。我々が、からくりとか、
からくり人形といっているものは、おおむね室町時代からのものである。もっともこ
の時代にはこれらは「あやつりもの」と呼ばれていた。「からくり」と言われるよう
になったのは江戸時代の初めのころからである。
このあやつりものは、箱形の台の上に人形が飾られている形式のものが多かった。
箱から出た紐を引いたり、横に出ているハンドルを回すと、箱の中の仕掛けによって、
台上の人形が回転したり、手足を動かし鐘や太鼓を打ったりするようなものが、十五
世紀の初期には作られていた。これらの出現は中国からの影響が考えられる。
十六世紀半ばになり、ヨーロッパの宣教師ザビエルなどが時計をもたらすと、その
機構を取り入れて一段と精巧なからくりが作られるようになる。コインを入れると、
ストッパーが外れて動き出すという自動人形のようなもの、宴席で盃を運ぶ台のから
くりも作られている。江戸時代の初め十七世紀半ばには、時計の機構を応用した日本
のからくり人形の名品「茶運人形」も姿を現す。
もちろんこれらは、貴族や大名などの限られた階段の宴席のもてなしや、贈答品と
しての高級玩具であった。江戸時代には富裕な商人たちの間でももてはやされ、箱付
きの手回しからくり人形が、それら階層の娘の初節句の祝いに贈られるなどの習慣は
幕末まで続いた。
一方十五世紀の半ば、足利将軍義政は、北野神社に詣でた際に社前で散所者のあや
つりものを見物している。小屋掛けであったというから興行的な性格と思われる。ま
たこの頃には年中行事や祭礼に際して、風流の飾り物なども盛んに行われていた。こ
れら飾り物は人形とは限らなかったし、人形を飾っても動かないものも多かったが、
これに仕掛けを付けて動かすものもあった。高い棹の上や、空中に張られた線に飾り
物や人形を吊るして、これを横や下から紐で遠隔操作するものもあった。当県の安中
灯籠人形はこれに属する古い形式の人形戯である。このような走線戯も元は中国から
の伝来で、室町初期、南北朝の頃には、座敷の中でもて遊ばれるものと、公開の場で
大衆を相手にした祭礼や見世物で演じられるものと、からくりの二つの系列が成立し
た。前者はヨーロッパの自動人形と同じ範疇で考えられるものであり、後者は日本独
特の存在となる。しかし両者は全く無関係な存在ではなかった。以降のからくり師の
なかでも両方に関係した事例は多い。
江戸時代前半の比較的古い時代に成立した大津市の出車からくりを見ると、人間の
手を動力としているが、その発想は自動人形的なものが多い。ところがその後で作ら
れた山車の上のからくり人形の動きを見ると。自動人形的なものから、どんどん人手
を多く使ったものに変わっていく。これはからくりの見世物興行と人形芝居のからく
りの影響であろう。自動人形はどうしても単純な動きの繰り返しになるが、芝居や見
世物の場合はもっと複雑な変化が要求される。この辺からヨーロッパの自動人形と異
なる日本独自のからくりの発想が展開していく。
この当時のからくり人形の主流は、糸引きによる遠隔操作のものであった。見物も
そのことは承知していたと思われる。しかし、今も名古屋付近のからくり人形の山車
や、当時の見世物の舞台の絵でも見られるが、前面に時計の天符と歯車を組合わせた
ものを設置して、裏から紐で引いて、ガラガラと回し、舞台で動いている人形も、い
かにも時計ゼンマイ仕掛けで自動的に動いている雰囲気を出すなどの工夫をしている。
この糸引きのからくり人形の動きは、物語性に対応できるので盛んに使われたが、得
意の技は変身であった。鬼に変わったり、仏になったりもしたが、物語の最後に社に
なったり、橋になったりという奇想天外な変身も行った。
しかし、江戸時代も百年たった十八世紀始め頃に大きな変化が起こる。それは、竹
田近江、いわゆる竹田からくりの開発したと思われる放れからくりというものの出現
である。この代表的なものは現在も名古屋周辺や高山などで見られる「あやわたり」
のようなものである。唐子が雲梯の何本もの鐘木を次々飛移っていく演技は、人形の
仕掛けを紐で引くことでは不可能である。この放れからくりの人気は高かった。名古
屋辺りの山車もこの頃にしれまでの人形を放棄して、一斉に放れからくりに変えてい
る。内容的にもそれまでは、有名な故実の一場面をとったものが多く、演題もそれに
ちなんで付けていたのが「唐子の綾渡」「梯子乗り」「逆立ち太鼓叩き」といった曲
芸の種類を示すものになる。
2 パノラマ的屋台のからくりの成立
しかし十九世紀に入ると、人気を集めて1世を風靡した放れからくりも同じ内容の
繰り返しでは飽きられる時がきた。この頃には、いろいろな素材を使った作り物の見
世物が盛んになる。当時珍しかったギヤマンの細工もあったが麦藁、瀬戸物、竹籠、
貝殻といったもので、巨大な人形や、皆がよく知っている物語の一場面や、名勝の風
景などを手のこんだ細かい細工で組んだものである。単独で興行することが難しくな
ていたからくり人形はこれと結んで延命をはかる。ギヤマン細工の大船の船上の異国
の人物を動かし、唐子の代わりに黒人の人形にマストに登ったりの曲芸をさせる。朝
比奈の大人形の胸が開くと、そこから小さな人形が出て来て、大きな煙管の上を渡っ
て曲芸するなどである。
またこの頃には、「覗きからくり」と呼ばれるものが流行ってくる。「のぞきから
くり」というのは江戸時代の始めころからあった。これは今我々が知っている大きな
箱に幾つものレンズをはめた穴があってそこから覗くものの前身で、箱の大きさも小
さく、明けられた穴も一つで、そこから覗くと中に人形がいて、外からの紐などの操
作で踊りを踊るといったものだった。単純な物だが、芝居や見世物の開かれた空間と
違って、密閉された箱の中は一つの小宇宙で、そこで踊る人形には独特の感じがあっ
たと思われる。十九世紀の見世物でも、唐土の美女の人形を箱の中に入れて、覗きか
らくりのようにして見せたという記録もある。とはいっても元来は一つの穴から覗け
るのは一人だから、興行としては成り立たなかった。飴売りなどの余興であった。1
711年(亨保6年)大阪の竹本座で『津国夫婦池』という人形芝居が上演された。
この中で舞台の座敷が千畳敷に変わるところが評判となった。すぐに『室町千畳敷』
という題名で歌舞伎でも上演されたほどである。これは竹田からくりが元であろうと
思われる。後に竹田は名古屋での公演に『珍操千畳敷』という題で上演している。現
在の淡路の人形浄瑠璃館でやられている『三十二段返し』のように座敷の襟を次々開
けて行くと、極端な遠近法で書き割られた背景が千畳敷の大広間に変化するものであ
る。ヨーロッパの絵画の技法を取り入れたものであろう。浮世絵の鈴木春信もいち早
く屋敷の部屋をこのように書いているが、その弟子の芝江漢などが、より正確な遠近
法による西欧風の風景画などを書くようになると、それを覗きからくりのような密閉
された空間でより立体感を味わうようなものが出現する。これが我々が知っている覗
きからくりである。こうような覗きからくりの遠近法による背景と、旧来の小人形に
よる覗きからくりを組み合わせたような、仕切られた空間で一つの世界を演出する舞
台のからくり芝居が成立する。これに類したもので、道中の名所などと小人形で一場
面演じることは、以前から人形芝居の中では試みられていた事もあったのだが、から
くり興行の中で独立して演じられることはなかった。たまたま当時の見世物興行の中
で一般化した物語の一場面や名勝などを表す風潮と合ったのである。文政5年(1822)
の記事であるが、名古屋で竹田が興行した際の挨拶文を見ると、
「先似御町中様益御勇健に被為遊御座恐悦至極に奉存候。隋って此度絵本木曽路名
所 図絵六冊之内、都東山より近江美濃上野武蔵五箇国、国道筋六九駅、道法百三十
五 里半一二町、猶又大切にては、二荒山名勝志を形どり、黒髪山の古跡より裏見之
滝 迄、始終あらましを、新からくりにて取組、奉御覧に入候間、先年に不相替賑々
敷 御見物御来籠之程、偏に奉希上候。以上 細工人 竹田縫之助(尾陽戯場事始)」
と言っている。名所の実景を模したものとしては、竹田は十二年前の文化六年に大阪
で『四天王寺伽藍雛形』をやっているが、この『絵本木曽山伝記』は、道中の名勝を
組んだ新しいからくりであることを宣伝している。もっともこの二年前、江戸の回向
院の竹細工の見世物でも、東海道五十三駅を模したミニチュアのパノラマが新しい趣
向として評判になっている。これは動かないものであったが、最後の場面の文覚上人
の滝の荒行では、本水を使い人形も動かした。どうも内容が似ているから、あながち
竹田の発明とは言い難いが、作り物の見世物で培われた、人の良く知る芝居や物語の
一場面、人気の高い名所の風景と、小人形を組み合わせたパノラマからくり舞台が、
この頃に生まれたと思ってもよい。こうしてからくりの見世物に新しいジャンルが成
立した。これは竹田からくりに活路をもたらしただけでなく、その後のからくりの興
行の中で重要な位置を占めて幕末に至るのである。
桐生の屋台からくり人形舞台は、この種の竹田からくりの系列に属するものとして
理解できる。
3 からくり興行と水車
桐生のからくりを位置付ける際にもう一つ見逃せないのは水車との関係であろう。
見方を変えれば水車からくりというジャンルに属するものである。からくりを動かす
為の動力という点では重要な部分であると思われるかも知れないが、実は江戸時代の
からくり興行で、はっきり水車を動力としたと推定できる物はない。
久米栄左衛門の発明した水車の装置なども、大阪や江戸で見世物に出しているが、
この時も水車自体は人力か、汲み上げた水で回していたと思われる。初代竹田近江な
どは道頓堀に水車をしつらえ、それでからくりを動かしたと物の本にはあるが、道頓
堀で水車が回るとは信じられない。しかし、当時の道頓堀には竹田の外にも人形芝居
の竹本座や山本飛騨掾や歌舞伎の座もあったが、度々舞台で大量の本水を使っていた。
回りに水はあるが大量に使うとなると、能率のよい揚水機のようなもので、水を汲み
上げていたのではないかと思う。このような揚水機を使って逆に水車を回すことは有っ
たかも知れない。例の棒天符の仕掛けを裏から紐で引いてギチギチと回し、いかにも
人形が時計のゼンマイ仕掛けで動いているようにみせるのと同じで、水車を動力に人
形からくりが作動しているように思わさせたのかも知れない。『武江年表』文化十年
の頃に「弁天の池に水車を仕掛け、人力を用ひずして人形を踊らせ、鳴物を鳴らす見
世物出る」とあるが、上野の不忍池で水車が回る訳もないから、これも人力か、何ら
かの方法で水車を回して見せたのだろう。
とはいってもこれらは実際に水流のある場所でなら立派に水車を動力にからくりを
動かせたと思う。要するにからくり興行で実際に水車を使用しなかったのは技術の問
題というより地理的条件であったといえる。これについて面白い事例が有る。先頃迄
唯一の水車からくりとして知られていた知覧の豊玉姫神社の水車からくりについて、
周辺部まで視野に入れた『薩摩の水からくり』という報告書が多くの方々の努力で出
された。その中に昭和二十二年頃まで豊玉姫神社近くの取違という集落でも屋台のか
らくりが行われていたが、ここは豊玉姫神社とちがって水路がないので水車が動力と
して使われていたわけでなく、人が中に入って動かしていたという。ただ二階に上げ
た樽から竹筒を伝って水を落として水車を回していたという。江戸時代の水車からく
りをうたった興行を彷彿とさせる。水車を回せないような場所では、このように行う
という情報は案外一般化していたものと思われる。
ただし人形に曲芸をさせるような種類のからくりと違って、パノラマの舞台で比較
的単純な動きで、小人形を沢山動かすなどといったとき、水車のような動力は魅力的
であるし、幕末には水車を動力として使うことは全国的に一般化していたから、今後
も新たな例が発見される可能性は高い。
4 竹田からくり
桐生のからくり人形の発見の最大の意義は、江戸時代後半、幕末に盛んに行われて
いたからくり興行、特に竹田からくりの、パノラマ式舞台のからくり人形芝居の実態
を明らかにした点であろう。
寛文2年(1662)初代竹田近江は、大阪道頓堀でからくり興行を始めて大評判と
なる。以降竹田の代々の、近江、出雲、外記などの一族は大阪の興行界に君臨し、三
代から四代近江の最盛期の頃には、からくり芝居の小屋の外に、義太夫や近松門左衛
門などで有名な、現在の文楽のルーツである竹本座、出羽座、中の芝居、京都竹本座
など五つ劇場を経営していた。しかし四代近江の1768年頃には経営が破綻して、
すべての劇場を失う。
とは言っても、からくりと言えば竹田、竹田と言えばからくりといった名声を利用
して、その後も大阪名物として、地方から大阪を訪れた人々に見せたり、曾ての地盤
であった名古屋を中心に、伊勢、東海地方を巡演したりして余命を保っていた。竹田
近江五世からは受領することもなく、縫殿之助の名義でからくりの興行を行うが、昔
日の面影はなかった。
六代、七代までは大阪に本拠をおいていたもようである。天保七年(1836)江戸浅草
奥山出、硝子細工人楠本富右衛門と組んで、ギヤマン楼船を出したのは七代縫殿之助
であったと考えられる。これが縁で竹田は江戸に定住したともいわれるが、実際に定
住したのはそれから十三年後の嘉永六年以降で、八代縫殿之助清一であろう。この人
は、系図によると四代目近江方出雲掾孫文吉となっている。文吉は三代出雲の名前で、
竹本座を手放した後もしばらくの間この名前で、座元として頑張った。文吉は出雲系
で代々引き継がれていた名前かも知れない。
八代縫殿之助は嘉永六年(1853)回向院で怪談人形を出し、奥山の菊人形に『大江山』
を作っている。安政二年(1855)の大阪で自殺した人気俳優『八代目団十郎一代記』は、
初めて江戸に乗り込んで来た生人形の名手、松本喜八郎と張り合って、人気を二分し
た。しかし独自の自前の興行はそれまでで、その後はもっぱら松本喜三郎の弟子で独
立した秋山平十郎と組んで、生人形のからくり部門を担当するだけになってしま得。
それでも平十郎の生人形との仕事は毎年行い、これが十年程続くが、慶応三年、平十
郎が死ぬと縫殿之助の名前は聞かれなくなり、明治三年十月(八月ともいう)に没す
る。
こうして名門竹田も絶えたかと思われたが、二十四年後の明治二十七年、桐生に姿
を表す。ここに現われ東京浅草公園二区、竹田縫殿之助は、演目の『大江山千丈嶽頼
光山入の場』を見ると、嘉永六年の『四天王大江山入』(参考図、山崎構成、『曳山
の人形戯』所載)と同一と思えるので、その人形をそのままか、補修して持ち込んだ
ものと想定される。この事から見ても、桐生に乗り込んで来たのは、竹田の正当な後
継者で、ここで行われたのは間違いなく竹田からくりであったと見てよい。桐生が四
月十日から二十九日迄であったが、同年六月浅草公園でも、器械活動人形『明治勤王
談』と釘打ったからくりの興行を行っている。(恐らく大黒館と思われる)ここでは
十一世縫殿之助清兼と名乗った。八代目から二十四年の間に十一代となったには、後
継の複雑な問題があったのではないかと想像される。この十一代とは八代目の弟子で
最終的な名跡を継いだ金子徳兵衛で名跡を継いだ記念の一世一代の興行がこれではな
いかと思う。だとすれば桐生に現れたのも同一の人物であろう。この浅草公園の興行
について『毎日新聞』は六月十二日の記事で「浅草の縫殿之助の名は、明治初年、浅
草奥山に名工松本喜三郎が『観音霊験記』の生人形評判なりし頃、喜三郎に次で都人
の噂に上がりしと覚ゆ。その後は久しく聞くところなかりしが、先頭より浅草公園の
一隅「明治勤王談」の生人形に其名厳めしく掲げられ、鼓角喧伝の間に立ちて第一の
喝采を博せるがごとし」といっている。当時の流行もあったろうが、からくりよりも
生人形師として売れていたようで、桐生でも生人形師を肩書にしている。毎日新聞に
は内容の紹介もある。「月照投海の場は、場中第一の第仕掛けなり、白砂前面を覆ひ
て、中に南州、国臣と月照が薩摩潟の荒波に浮きつ沈みつせる様、上の船中には僕重
助が期くと見て驚ける様を写しぬ。月照が合掌しつつ沈める所、重助の驚き顔、共に
妙なり。多数観客悦べるは、仕掛け物にや、群衆は何時も此処と限らる。」と述べ、
他の各コーナーも細かく説明しているが最後に「但だ全場を通じて遺憾なるは、機械
作用の方法、相変わらず全からざるの一事なり。之れが為、挙動滑かならずして、折
角の生人形も死了せる感なきにあらず」といっている。どうもメカには弱かった様子
である。人形師と器械師と分けるのは、昔からのからくり一般の習慣であるが、本来
は生人形の機構の部分を担当するのが竹田の仕事であったのに、そのようなメンバー
を東京から連れて行かないで土地の細工人に頼ったのは、桐生の水準の高さを物語る
ものであろう。いづれにせよこの明治二十七年の桐生と浅草が、竹田のからくり興行
の最後となった。寛文2年から二百三十二年続いた日本のからくりを代表する竹田の
最後の活動記録が桐生で発見された意義は大きい。
5 桐生からくり舞台の性格とからくり研究上の意義
明治二十七年の桐生天満宮のご開帳の飾り物は、一丁目から六丁目まで屋台が奉納
されている。その四丁目が竹田の『大江山』であった。しかしこれが桐生の他の町の
屋台と並べて特に変わったものだったという伝承はない。貴重な資料として引き札も
残されているが、その中でも特別な扱いは受けていない。しかもその屋台機構は現地
の四丁目の者が担当している。竹田からくりは、桐生の側から見て発想も技術も、異
質な物ではなかったし、竹田の側からも同じことが言えるのである。ということは、
江戸時代後半に行われていた竹田からくりと同質のものが、当時の桐生では演じられ
ていたと見てよい。
問題はその後の昭和まで五回にわたって、十年、二十年の時を経て行われている内
に変質していないかということである。現在残っている人形や舞台機構の資料、写真
などを元にしてこれを江戸時代のからくり舞台の形式を伝える物と断定して良いかと
いうことである。
確かに大正五年までは水車であったものが昭和三年からは電動モーターに変わった
などのことはあるが、これは水車からくりの項でも述べたが単に動力の問題で、内容
表現には直接の影響はないとみてよい。
大正五年以降は舞台の写真も揃っているが、それらを見る限り昭和まで形式的な変
化は認められない。引き札の絵のある明治二十七年と大正五年の間に明治三十五年が
あるが、この時の演目をみても、『曽我の夜討』とか『菅原』とか、後に引き継がれ
ている。そのほか各回に共通した外題も多い。また演目は異なっていても、例えば、
『宇治川の先陣』は嘉永五年、昭和三年と、離れた時期に行われているが、これに挟
まれた明治二十七年の『左馬介湖水乗切』は同じ機構でやれた筈であるご開帳の度に
新規に一から作るのではなくて、以前の機構を利用して新しい演目を工夫することも
行われていたのであろう。このような事情で意外に古い機構が伝えられる条件はあっ
た。
現在判明している一番古い屋台の記録は、六丁目の浄雲寺の開帳に際しての天保5
年のものであるが、それから昭和三十六年までの演目は、有名な物語や芝居の一場面
や、それに風光明媚な景勝をパノラマ風に組み込んだ江戸時代の小人形のからくり舞
台の伝統にのっとったものである。昭和三十六年の『羽衣』はコロンビアローズ似顔
人形が歌を歌うというと、いかにも現代的に変質したもののように聞こえるが、とき
の人気者の顔を写すというのは生人形の伝統であるし、背景は美保の松原で、すでに
天保五年の演目にもある典型的なパノラマ舞台である。桐生の屋台の演目の多くは、
天保の「文覚上人」「羽衣」を始め江戸の見世物からくり興行の演目と一致するもの
がすこぶる多い。
この影響は演目だけではなく、細かい演出面にもかかわっている。例えば桐生の昭
和三年、二十七年の出し物に『忠臣蔵』がある。その討ち入りの吉良邸内の場で、枕
を抱えておろおろ逃げる滑稽な腰元の人形があるが、安政三年、松本喜三郎の『忠臣
蔵』討ち入りの場では、裸で逃げまわる滑稽な腰元をだしてお上から取り払いを命ぜ
られている。明らかにこのような見世物の人形の表現の伝統が、桐生に取り入れられ
ているのである。このように見てくると、桐生のからくり屋台は、江戸時代後期に盛
んに行われていた見世物のからくり舞台を、唯一今に伝えてきた物だと判断してよい
と考える。これが日本のからくり史研究の上でどのような意味をもつものであろうか。
竹田からくりの名前は良く知られていたが、第2次大戦後まではこれは完全に消滅
したものと思われ、舞台の絵尽くしや文献で想像されるに過ぎなかった。しかし山崎
構成先生の努力で、名古屋周辺を中心とした山車の上の人形が、竹田からくりを始め
とする江戸時代中期を中心とする見世物からくりと同一種類のものであることが証明
され、からくりの研究は飛躍的に前進した。
しかしそれは、1、の系譜の項で述べた、放れからくりの時代までのもので、後半
から末期の見世物のからくり舞台については、やはり少ない文献の記述や、簡単な引
き札の絵しか存在していなかった。からくりは動かせば壊れるもので、壊れれば廃棄
される運命にあった。名古屋周辺の山車もからくりが残ったのも、祭礼という条件の
中であった。桐生の場合も天満宮のご開帳という地域の行事に支えられて、奇跡的に
残った物である。文献や絵画と対比できる現物の出現は、画期的な事件と言って良い。
今後の調査、研究によって、人形、舞台機構が復元されれば、江戸後期の見世物のか
らくり舞台の実態が始めて明らかにされるだろう。
また、桐生の屋台からくりの発見によって、今まで独自な物として見られてきた福
岡の八女、福島の灯籠人形、知覧の水車からくりも独自の孤立した存在ではなく、同
じジャンルのものとして一括して考察されるようになると思う。
桐生のからくりの調査に当たって見逃せないのは、その地域の性格であろう。江戸
時代の文化的水準が高かった事、江戸からの距離も情報の人手に有利であったこと、
商業、産業の活動が活発で財力もあったことが挙げられる。これらは、江戸の有名な
生人形師、松本喜三郎を始め、多くの山車の人形の存在にも反映している。と同時に
ここは機織りの盛んな土地であった。先の八女の灯籠人形と縁の深かったからくり興
行が盛んで、からくり儀衛門を生んだ久留米も機業の中心地であった。からくりを盛
んにし、維持していくにはこうした地域の条件が大切であった。
前原勝樹の大正五年のお開帳の回想記『うろ覚え』には、「お開帳の呼物はなんと
云っても生き人形の飾り物である。これは一尺くらいの小人形であるが、手足は勿論、
首や目まで動くのである。これは織物の町に特有な座繰屋さんが受け持って機械組み
をする。座繰とは織物準備機の一種で、木製の歯車で組み立てた機械である。この歯
車を応用して人形に動作をつけるのである。そしてその源動力は水車であった。当時
は本町通り西側の堀にはドンドン水が流れており、充分に水車が運転出来たのである」
と述べている。機織りを基盤に、各町内に機構に強く、工夫の好きな人が大勢いる町
だったのである。
幕末から昭和まで水車は産業動力として、この町では多用され親しまれてきたもの
であった。この時期には群馬全体が水車王国と呼ぶにふさわしいほど普及していた。
その中で赤城村の上三原田の歌舞伎舞台
も生まれる。回り舞台にセリ、吊り上げ、下
げを併設して、現代の大劇場に匹敵する機構をもったこのからくり舞台は、文政2年
(1819)伝説的名工で水車大工の長井長次郎によって作られたという。この地域には江
戸のからくり見世物を受け入れ自分たちの手で運用する基盤が充分にあったのである。
天満宮、または観音様のお開帳に飾り物を出すことがいつのころから始まったかは
明らかではないが、現在と同じようなからくりの飾り物の記録は、先にも触れた粟田
豊三郎の紹介による天保五年(1834)深町北荘の浄雲寺のものが古い。この種類のから
くり舞台を、本元の竹田が開発したのが文政五年(1822)頃のことであり、天保五年に
は竹田はまだ江戸に出てきていなかった時代である。このときの演目の一つが、『文
覚上人那智滝荒行の場』であるが、これは系譜の項でも紹介した。竹田が名古屋でこ
の新からくりを発表した二年前、両国回向院で行われたものがモデルであろう。天保
五年というのは、いち早く取り入れたというべきであろう。
このような対応の早さは、仮に[パノラマ式小人形からくり屋台]と呼ぶ現行の形
式の以前に、桐生において先行するからくりの屋台が存在していたのではないかと想
像される。
現在は前橋市に編入された旧芳賀村の小神明でも、村内の五組が飾り屋台を出す灯
籠祭りが、明治二十六年まで行われていた。桐生から直線距離で20キロの所である。
このなかに水車を動力として、ぐるぐる回る回り舞台のような台の上で、上杉謙信と
竹田信玄の一騎打ちの人形もあった。この構造は知覧の近くの加世田の水車からくり
と同じである。芳賀村の小神明には外に池の弁天様を祭った小島の回りを、小船に乗っ
た玉取り姫とそれを追う大蛇を、水の流れで、ぐるぐると回るものもあった。これは
中国の文献にある水転百戯にも出てくるような物で、一層古い形式を感じさせる。そ
んな古い物がと言われるかも知れないが、何しろ室町末から江戸時代初めの芸能の、
安中の灯籠人形も存在する県である。知覧の場合も、加世田形式の単純な水車からく
りの分布圏が存在していた中から成立したという推察もなされている。小神明でも人
形など、古市や原の郷といった他村から細工人を呼んでいるので、同じようなものが
この地方に分布していた可能性はある。桐生もその分布圏にあって、かってはもっと
単純な水車からくりを行っていたものが、江戸との接触の中で現行のような形に発展
した可能性もある。
いずれにしても桐生からくりの解明には周辺地域も視野に入れての調査が必要であ
ろう。
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