桐生に残った貴重な芝居からくり
国立科学博物館
鈴木 一義
私が桐生に残っていた「芝居からくり」に出会ったのは、本当に偶然のことでした。
今から5年ほど前、大学の先生や博物館の学芸員たちと日本の写真の草分けである島霞谷という人物の調査に桐生を訪れたときのことです。同道頂いた山鹿先生から、桐生に不思議な人形があるので見てくれないかと頼まれたのです。以前に江戸時代のからくり人形を調べていたことがあり、早速見せてもらいました。それは、10数体の40〜50cmほどの幕末から明治期に流行した「生き人形」と呼ばれるタイプ人形でした。生き人形は、人間や動物などをモデルにしたリアルな人形です。幕末頃から、これにからくり技術を加え、まさに生きるがごとしの生き人形が「からくり芝居」に用いられて大流行したものです。 江戸時代のからくりは、大きく3種類に分けることができます。今でも中部などに残っている 「山車からくり」のような祭礼に使うからくり、現在のおもちゃのロボットように個人が購入した「座敷からくり」。そして、見世物などとして使われた「芝居からくり」です。山車からくりや座敷からくりは、地域の芸能や個人の資料として今日まで残りましたが、芝居からくりは時代の流れの中で、見世物芸能として生き残ることができず、明治末には消滅したと言われていました。からくり芝居は、京都や大阪、名古屋、江戸などの大都市で、寛文2 (1662)年からつづく江戸時代の中心的な芸能の一つでした。しかし江戸から明治への近代化は、からくり芝居のような大都市での見世物芸能のいくつかを、社会的に消し去ったのです。 ところが実は江戸の芸能は周辺に残されていたのです。江戸が東京に変わり、そのような芸能を不用としたときに、江戸近隣の八王子や川越、佐原、桐生のような比較的裕福で文化水準の高い地域がそれを引き受けたのは、考えてみれば納得がいく事実です。江戸の文化は、江戸周辺、江戸文化ベルト地帯とでも言える周辺に残されていたのです。 からくり芝居も奇跡的に残された一つでした。東京では、おそらく最後期の興業となった明治27年のからくり芝居と同じ出し物が桐生の天満宮での出し物となっています。その後調べて項いたところ、昭和36年まで桐生天満宮において各町が競い合って、都合6回ものからくり芝居が興業されており、最初に見せて頂いたもの以外にも、まだ何セットかの人形が各町に残されていることが分かったのです。 何度か調査をさせていただくなかで、地元に「桐生からくり人形研究会」が発足されました。研究会は、その貴重さを市民の方々に知っていただくために講演やシンポジウムを開催されたり、驚くことに2年も経たないうちに復元まで行う行動力を示されました。この度、この桐生からくり芝居が文化庁による 「ふるさと再興事業」のひとつに採択されましたが、行動力のある研究会く現在は「桐生からくり保存会」lの活動と成果は、本事業のモデルケースとなるものと期待しています。桐生からくり保存会は「楽しく研究するからくり人形」だとか、その楽しさを、ぜひ大勢の方々に広げていただき、いずれ桐生からくり保存会が日本中を興業して回る日が来ることを、私も心より楽しみにしています。
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