桐生カラクリ人形に思う
日本芸術文化振興会
西角井 正大

昨(平成9年)秋、日にちなどは定かに覚えていないのだが、出勤の支度をしながら何げなくNHKのモーニングショーに目をやっていると、パノラマ屋台式の芝居“カラクリ人形”発見のニュースを報じているではないか。びっくりして一瞬目がブラウン管に釘付けになってしまったほどだった。なんと場所は桐生だというのだ。桐生といえば名だたる織物の町であり、近年はコンピューターの導入によってたちどころにオーダーどおりの図柄の一品生産もやってのけるとのニュースもあったし、パチンコ生産王と電子化なども何度か話題になっていた。
 私は個人的には桐生の夏の夜を彩る(花火ではなくて)「全国八木節コンクール」の審査員を数年努めさせていただいたことがあるが、この桐生カラクリ人形については全く知らなかった。それだけに驚きが大きかったのである。意外というより不明を恥じるような気持ちさえあった。さらに驚くまいことか喜ぶまいことか8ミリのカラーフィルムによる記録が映し出されたのである。ということは昔の話しではなく8ミリ映画が流行った時代、少なくとも昭和30年代まで健在であった証しである。見ながらこれは問い合わせをしなければと思ったところ宇野小四郎氏と鈴木一義氏が画面に現われた。やはりというべきか流石というべきか感じ入った次第だったが、まずお伺いするべき向きが判ったので安心して家をでたのである。
 この道々八木節コンクールの時を思い出してみた。宿をキノコ会館に取っていただいたので道筋からこのカラクリが催される天満宮は知っていた。あそこでなんだと勝手にその祭りを想像してわくわくしながら出勤の道を急いだ。そうしたのには実はもう一つの理由があったのである。私の勤める国立劇場に関谷さんという桐生出身の美しいお嬢さんがいるのでカラクリを知っているか早く訊ねてみたかったからである。少し話しに聞いたことはあるが、実際は知らないということだった。無理もない。お若いお嬢さんなのだから。しかし、以前彼女の家は天満宮の境内地にあったという。お医者さんである。
 キノコ会館とは妙だと思っていたら椎茸の人口栽培に成功してその特許は桐生出身の学者さんがお持ちだと知って妙に感心するものだったが、織物がもたらした豊かな経済力、その質のために科学する心、デザインする美や遊びの心が桐生の人々の心の根底にあってこのカラクリ人形が導入され、氏子各町が趣向を競うようになって幾つもの見事なカラクリ人形戲を作り上げて伝承してきたのだと思う。

2
 放送があって間もなく鈴木一義氏からお電話をいただいたばかりかこの桐生天満宮御開帳飾物(これが地元では正しい呼び方)に関する現在手にすることができる全ての文献資料と群馬県の人形芝居を総括した文献をお送りいただいた。まさに有り難いの一語に尽きる。なんと県も抜かったことに県内人形芝居総記なのに桐生飾物を載せていない。その上また昨11月2日の特別公開にお誘いいただき実物を見学することができたのである。しかし、少し残念なこともあった。期待していた8ミリフィルムが途中で故障してしまい全部観ることができなかったことである。
 このフィルムは昭和36年の御開帳の時の記録である。その前は昭和27年、そしてその前が昭和3年、さらび溯ってみると飾物が出た最初が嘉永5年(1852)で36年までの110年間に8回しか執行されていないから本当に10年から20年に1回という大変貴重な催しなのである。各町の飾物の趣向を見ると京都の八坂神社の祇園祭の山の飾物(囃し物)の趣向を競うおかしみの能狂言の「くじ罪人」や「煎物」の熱気を思わせるものがあって唸ってしまうほどであるが、精巧なそして繊細なしかも壊れやすい木工細工中心のカラクリを保存し、操作技術を伝承して行くのは並大抵のことではないと思われた。公的援助が考えられてもよいところだろう。
 これらのカラクリは水力つまり水車の力を動力源として動かしたものだという。一つの動力源から多方面に同時的にあるいは異時的に伝え多様な運動を起こさせるメカニックは舌を巻いてしまうが、私は桐生のものを知るまでは鹿児島県川辺郡知覧町の豊玉姫神社の水車カラクリ人形戲しか知らなかった。いや日本に現存する唯一の水車カラクリと信じていたのであった。だから桐生のものの存在は意外な驚きの何物でもなかったわけである。知覧とて戦後久しく途絶えていたもので復活してまだ幾年も経っていない。宇野小四郎氏が縮尺版を作られている。
 何か物語的芝居的発想のカラクリ人形戲は滋賀県大津市の大津祭の山車カラクリの「源氏山」などが古い例かと思うが、知覧も含めて人形の丈が20〜30cm程度と小さい。しかし外見的に見ても極めて精巧な出来である。なかんずく桐生の人形は人間そのものといってよい写実である。表情も、いな皮膚の質感までそっくりなのである。“活(生)人形”の系譜に立つものだからである。明治27年執行の四丁目の飾物「大江山千丈岳頼光山入の場」の人形は浅草の人形繰りの竹太縫之助の手による活人形であった。
 現存桐生活人形も素晴らしい活人形であり、これに匹敵しそうなのは岡山県津山市に人形だけが残る糸繰りの遺産だけかも知れない。これは歌舞伎役者の顔を写したものであるが、活人形は今日のろう人形のように等身大のものもあったようだ。歌舞伎の「夢結蝶長追」の中に「ほんに生人形の細工は、肥後の熊本の人だそうだが、役者の人形などは、びっくりするような細工だ」とある。熊本の人は、幕末から明治にかけて浅草奥山の見世物小屋で活人形で大評判をとった松本喜三郎という人である。なかでも「両国三十三所観世音霊験記」というのは明治4年正月から同8年秋まで丸々5年間近くもロングラーンするほどの大当たりをとったという。
 このような評判の活人形が今は浅草にその面影さえなく、桐生の地に祭礼の飾物カラクリ人形戲として遺存していることの意義は文化史的にまた文化的に極めて大きなものがあると思う。昭和36年から既に37年経ってしまっている。桐生飾物の歴史上執行にこれほど間隔が空いたことはない。このままでは物だけが資料として残る事態になりかねない。もはや独り桐生の宝であるわけでなく日本の文化財といってもよく、気づいた時が吉日と思ってできるだけ早く完全復興を果たして欲しいと切に思うものである。幸いといおうか21世紀にはいる2001年は桐生飾物が今日につながるような姿形で再興されてから丁度150年目に当たる。前回の昭和36年から数えると丸々40年経つことにもなる。準備期間も考えればよい機会ではないだろうか。
modoru.gif桐生からくり人形考察目次へもどる
modoru.gifホームへもどる