オランダのライデンを訪ねたのは3月末、復活祭の直前で、北海からさえぎるものなく吹きつける風はまだ、とても冷たかった。シーボルトゆかりのポイントとして欠かせない国立植物園では、熱帯植物を集めた温室に入ると即座に眼鏡が曇った。 この植物園の一角に、シーボルトを記念してつくられた日本庭園がある。 そう広くはないが、瓦を乗せたベンガラ色の塀で囲まれ、庭石と砂による枯れ山水は、日本とオランダの尽きることない友好関係も象徴しているのだという。あずまやの奥には、シーボルトの胸像があった。最初の来日時の姿であろう、若々しくも気概に満ちた表情である。
写真【ライデン植物園にある若き日のシーボルトの胸像】
その視線をたどると、一本のソメイヨシノがまさに花盛りであった。日本式にしつらえられた庭園とはいえ、異国で見る満開の桜はいっそう非現実的である。生涯日本を思い、収集した植物標本の一部や日本の絵師に描かせた植物画を手元に置いていたシーボルトの未完の夢が、ここに宿っているかのようだ。
そして大きなケヤキがあった。1830年にシーボルトが日本から持ち込んだものといい、立派に年輪を刻んでいた。園内にはあわせて14種、シーボルトの樹木が生育している。学術研究にとどまらず、園芸栽培の活発だった日本の植物でヨーロッパの庭園を飾り、山地を緑化したいという実用への関心が高かった彼なのだ。
カノコユリを生きたまま持って帰っただけでも、シーボルトの名声が高まったという。美しい大型図版の『日本植物誌』、大勢の読者を得るためラテン語でなくフランス語で記述したその文中にも、薬用、食用、工芸用、建材、燃料などへの言及をしている。
蝦夷地やアイヌ民族に対する関心の強さも、ヨーロッパでの植物利用に役立てるためであった。1859年、30年ぶりに再来日した際にも情熱は衰えず、日本の歌人が「森の英雄」と呼んだスギに関する情報を収集していた。文明によって伐採されてしまった南ヨーロッパの山地に植林し、森の再生の可能性を考えていたことがわかる。
春まだ浅い植物園には、草いきれの立ち込める温室以外、目覚めている花たちは少なかった。そんな中で目についたのは、サクラソウの仲間たちである。ピンク、黄色、白、ヒマラヤ山麓などが原産のもので、さすがは「プリムラ」、最初の花だと感じ入った。
結局、わがカッコソウの学名「プリムラ・キソアナ」のもとになったのは、シーボルトが書いた標本ラベルの「kizo」であった。謎は残るが、シーボルトのつけた仮学名「プリムラ・ヒルスタ」でなくてよかったのかもしれない。これが有効なら、「毛むくじゃらのサクラソウ属」である。確かに葉や茎の特徴をとらえているけれど、あの可憐な花にはちょっと、かわいそうな名前ではないだろうか。
写真【シーボルト記念日本庭園の枯山水のなかにソメイヨシノが一本、満開の花を震わせていた】
「桐生タイムス掲載」
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