1-5旧居訪問
[ Home ] [ Up ] [ 1-1標本確認 ] [ 1-2助六標本 ] [ 1-3新標本館 ] [ 1-4海蔵標本 ] [ 1-5旧居訪問 ] [ 1-6標本追加 ] [ 1-7プリムラ ] [ 2-桐生から標本 ]

旧居訪問、『植物誌』発刊に献身

 シーボルトの旧居が、ライデン市内にあった。旧市街地の運河に面した三階建ての建物で、国立植物園にもほど近い。金のプレートがはめ込まれていて、それとわかった。「フィリップ・F・B・フォン・シーボルト博士の住んでいた家−1836年より1847年迄−」。日本語の表記もうれしい。

  150年前、シーボルトはここに住み、この石畳の道をいかめしく歩いては、植物園に通っていたのだろう。そんな光景が浮かんでくるほど、周囲の町並みも古色蒼然と落ち着いていた。しばらく感慨にふけっていると、旧居には意外と人の出入りがある。思い切って重いドアを開けてみたら、前方の庭に通じる通路の右側は待ち合い室のようだった。階段を降りてきた人に尋ねてみた。「ここがシーボルトの家ですか」と。写真【ライデン植物園の近くに残るシーボルトの旧宅】

  彼女は別の男性を呼んできてくれた。「住んでいたけれど、いまは何も残っていません。シーボルト関係のものを見たいのなら、国立民族学博物館か植物標本館に行けばいいでしょう」と教えられる。「ありがとう、もう行ってきました。ところでここはいま、何に使われているのですか」。「裁判所の一機関です」という。親切な彼と、握手して別れた。

  1829年12月、シーボルトは国外追放処分を受けて日本をあとにした。荷を積んだ船が台風で座礁してしまい、禁制の書物や地図を持っているのが発覚した、いわゆるシーボルト事件である。彼は翌年、バタビア経由でオランダに戻ったが、その膨大な収集資料はブリュッセルやアントワープ、ガンにあった。ベルギー独立による混乱を免れてライデンに移されたのは幸運であった。防虫や梱包にもたいへんな配慮をした、大切な標本類なのだ。 

 1832年、シーボルトは『日本』の最初の分冊を出版、翌年には『日本動物誌』の刊行がはじまり、さらに『日本植物誌』の計画もあった。出版経費は莫大であり、資金調達のためにヨーロッパ各地の宮廷や富裕な商人への宣伝旅行にも出ている。強力な共著者ツッカリーニも得て『植物誌』の最初の10図版が出版されたのが35年。この建物に移住したシーボルトは、さぞ意気軒高だったことだろう。

  『植物誌』のフランス語による著述には「日本滞在でシーボルトが収集した生のデータが十分に活かされている」(大場秀章東京大学教授、『シーボルト日本の植物』、八坂書房)。同教授は「江戸の文政年間という限られた年代ではあれ、当時の一般の人々の当該植物の利用のしかたやその植物についての知識など、いずれをとってもかけがえのない民俗植物学、植物文化史上の貴重な記録である」とも解説している。
【写真・金プレートには日本語の説明もあった】

  標本類は植物画とともに、美しい図版製作に役立った。しかしそれは150足らずで終わってしまった。残念ながら、カッコソウは含まれていない。 

「桐生タイムス掲載」

 


Copyright (C) 2000 by Akiko Minosakii , Barbara Kamiayama
& Orijin Studio Miyamae
Kiryu Gunma 376-0046 Japan
Mail:info@kiryu.co.jp

  
Seibold