1-2助六標本
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助六標本、双方向からの交流から


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796−1866年)が医師として初めて長崎・出島のオランダ商館に赴任したのは、1823年から29年、文政6年から12年のことだった。『解体新書』の出版から50年、蘭学は隆盛で、彼は西洋医学だけでなく自然科学全般を日本人に教えた。同時に日本研究に必要な動植物標本や美術工芸品、生活・民俗資料などを幅広く収集しており、日本の文化水準の高さをヨーロッパに伝える役目も果たしている。二十代後半から三十代前半の若さとはいえ、6年ほどの滞在にしては驚くほど広範膨大なコレクションの形成には、その名声を慕う多くの日本人の協力があった。シーボルトが「日本学」で最も情熱を注いだ植物研究においても、双方向の交流があったといえよう。
(写真・ライデン国立植物標本間の統一台紙に張ってあった和紙の畳紙)

  大河内存真・伊藤圭介兄弟とその師・水谷豊文(助六)が初めてシーボルトに出会ったのは、1826年、シーボルトが江戸参府途上の宮(熱田)であった。シーボルトの『日記』(齋藤信訳、思文閣出版)に、そのときの記述がある。助六は「博物のあらゆる部門にわたって採集したものを携えて来た」という。「そのなかには宮周辺の地方のたいへん珍しい植物の幾つかが、非常に良い、特色のある乾さく標本になっていて、それに和名と中国名(訳注=仮名書きと漢字書きの名)がつけてあるもの(があった)」「私はM・Z(水谷助六)に簡単で非常に重要な植物解剖学を手短に教え、この地方のすべての珍しい植物の収集を依頼した」

  カッコソウの標本は、このときにプレゼントされたものではないだろうか。シーボルト以前、「日本にはまだ学術的な押し葉の標本の作成技術は確立しておらず、携帯に便利なように標本は小さく作られる傾向があった」(山口隆男熊本大学助教授)のだ。

  多くの助六標本に当たった加藤僖重博士(獨協大学教授)に尋ねると、和紙の大きさ、小紙片の添付、そして筆跡から「これは助六のものと見ていい」とのことである。ちなみに助六は27歳で尾張藩の御薬園御用となり、たびたび諸国に植物採集を行ったという。従来の本草学者の域を超えて蘭学にも積極的だった。  しかしこのカッコソウ標本は植物全体でなく、根もない。シーボルトに会う前に作成したと考えられる。助六、当時47歳。ライデンでは「カイスケ」として有名な伊藤圭介は23歳であった。

(写真・和紙を開くと、小紙片にも『カッコソウ』
とある。定説だった「圭介」ではなく、
水谷助六が作成した標本であることが分かった。)


「桐生タイムス掲載」

 


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