「桐生祇園・鉾と屋台について」

あーとほーる鉾座

桐生祇園祭の由来

  まつりは人々を熱狂させ、興奮の渦に巻き込む不思議な魅力がある。人が集まり街や村が形成される過程では必要不可欠な要素なのである。

祇園祭は元来、祇園会とか天王祭礼と云い、牛頭天王を祀った。貞観18(876)に京都を起源とした神仏習合の信仰であった。祇園精舎の守護神で、疫除として祇園社に祀ったことから、全国津々浦々に広まったのである。

桐生の場合、天正19(1591)から街並みを整い始めたが、明暦2年(1656)の祭礼記録が最も古く、これを桐生祇園の起源とする。当初は子供の手踊りが中心で、素朴なものであった。

現在の本町三丁目市営アパートの地に衆生院という寺があった。この地に牛頭天王社を祀ったのである。

商業都市として活気をもち、市がたち市神を建てた。この市神と天王社が一緒に祭りをするようになってから一層華やかになり、賑わうようになった。江戸末期には、屋台の曵き違いなどが行われ、四、五台出ることも珍しくなかった。江戸芝居など各町が競い、見物人も夜通し徹夜で楽しんだという。関東の三大夜祭りと云われた所以である。

華美な祭りは時には禁止されもしたが、安政の頃より総六町の屋台が本格的に建造され始めたのである。

明治維新が実現し、神仏分離の布告が出されると、牛頭天王の神号は廃止され、祭神は素戔鳴命とした。

京都の感神院祇園社が八坂神社と改めたのを機に全国へ広がり、桐生でも明治3年に衆生院が廃寺となり、八坂神社と改名し今日に至っている。明治41年末社と共に美和神社へ合祀され、神輿蔵を建造したのである。

織物業を中心として栄えた自由都市桐生は、京文化と江戸文化を貧欲に採り入れ、独特の町人文化を形成した。

経済力と文化的資質が、多くの文人達を呼び寄せ、そして輩出してきた。そのような土壌や気風が、祇園祭の鉾や屋台、祇園囃子や神輿、大幟にみられるように彫刻、絵画、書など、素晴らしい祭礼芸術を創造することになった。

先人達の残したこれらの文化遺産は、町衆の心意気と街への愛着が生み出したものであり、決して忘れてはならないものなのである。

(文・奈良彰一)

 

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