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シリーズでご紹介いたします。 『よく振るなア。この長雨に加えて、またまたこんなに強い降りー。なんだかいやな予感がする。何も起きなけりゃいいがな。』 石鴨(梅田町五丁目)の弥平さんは、降り続く雨のため木樵仕事に出られないままに、ここ十日間ばかりはからだををもてあましていた。その弥平さんの目に、いやな事件を予告するかのようにドシャ降りの雨が、周囲の景色をけむらせていた。 『ほんにな。早くあの青い空をみたいもんだね。』 いろりにたきぎをくべながら、女房のおゆきさんは、そう合い槌をうった。いつもは遥か下の方から清らかなせせらぎの音を響かせる桐生川も、長雨にすっかりその優しさを失っていた。 清流が赤く濁って逆巻き、牙をむく恐ろしい大河に変身しては、弥平さんならずとも何か大事が起こりそうな、そんな様相が感じとれた。 『お前さん、お茶にしないかね。いつまで眺めていたからって、このあめがあがつわけじゃなし。』 相変わらず外を見続ける弥平さんに、いろりの火をかきまわしていたおゆきさんが、こう言葉をかけた。と、その時だった。 ドドドドドーッ。 と、腹の底まで響くような異様な地鳴りがしてきた。立ち上がった弥平さんも、お茶を入れ始めたおゆきさんも、一瞬その動きを止めて耳をすませた。その二人の目の先の窓外を何やら大きな黒い固まりが、ゴーッとよこぎっていった。 びっくりした二人は、慌てて、その場へ伏したが、とっさに目と目で合図し合って恐る恐る窓辺に寄って外を見た。なんと軒下近くまでザックリとえぐりとられ地面が赤肌を見せ、荒れ狂って流れる桐生川にまでも続いていた。そればかりか、さっきまでヒッソリと静まり返って、ジーッと長雨を耐えていた村の鎮守.天神様の社が、後かたもなく消え去っていたのだった。 長かった雨がようやく上がった。桐生川は、まだ濁ったうねりを見せていたが、村人たちは自分たちの家や畑の手入れを後まわしにして、鎮守様を探しに下流へと向かった。 社は、ほどなく見つかった。流れ流れて梅原の地に打ち上げられていたのだった。だが12キロ余も濁流にもまれ続けてきたというのに、社はどこもいたんではいなかった。 早速、村人が集められた。 『皆の衆、鎮守様にまたワシらの村にお帰り願うんだ。しっかり頼みますよ』 庄屋さんのこの言葉に、人々はオーツと気勢をあげて社の引き上げにかかった。ところが、どうしたことか、小さな木造の社がピクリとも動かないのだ。様々な方法を試みたがいずれも効果がない。 そこで近くの神主を招いてお払いをしてもらったところ、 『ご神体が釜が淵の底に沈んでいる。そのご神体をお救いしない限りは、この社を動かすことはできない。』 とのお告げが得られた。 村人は、社の引き上げを一時断念して、ご神体発見に力を注ぐことにした。そして、まもなく釜が淵に眠るご神体を見つけだすことに成功した。 『ご神体が見つかったぞう。』 この知らせが届くと一緒だった。まるで根が生えたように重かった社が、わずかの残留の村人の手で楽々と引き上げられてしまった。 早朝から去りもやらずに、首尾はどうかと見守っていた観衆の間からも、期せずしてドーッと歓声があがった。同時にこの不思議さあらたかさを目のあたりにした大勢の人たちは、今さらながら天神様崇敬の念を強くしたのだった。 このできごとが縁となって、天神様はやがて桐生新町の総鎮守として、赤城明神の森(天神町一丁目)にまつられることになった。石鴨の地には新たに社が建てられ、末永く石鴨の鎮守様として隆盛の道をたどった。 『新宅の天神さんも、すっかり立派になったなア。』 村人たちのこの本家天満宮としての崇拝と誇りとに見守られながら。 石鴨の天満宮(いしがものてんまんぐう) 旧山地神社で、菅原道真公を祭神とする。 由良氏の重臣・藤生紀伊守は、京都北の天満宮から神像を受けて、自己の守り本尊としていた。天正十八年(1590)に主家の由良氏が常陸牛久に移るに際し、紀伊守弟・藤生六左右衛門は、桐生川上流の石鴨の地に土着した。そのとうりに、兄紀伊守の神像をこの地にまつって、藤生一族の氏神にした。これが石鴨天満宮である。 4月25日例祭、10月15日秋祭の祭事がある。11月上旬の天満宮社前の紅葉は見事で、ここを訪れる人は多い。 |
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