黒幣の天狗

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桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........

続・大力和尚


梅田町一丁目

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江戸の力士との静かな力くらべで、いよいよ怪力の名を高めた桐生山西方寺の大力和尚。その怪力ぶりを伝える2つ目の話を今日は紹介したい。

ある年の春のこと、和尚に江戸への急ぎの用事が生まれた。和尚は、留守中のことをこまごまと言い残すと、小僧たちを寺に残してそそくさと桐生を後にした。

当時のこととて、和尚の旅は墨染(すみぞ)めの衣に手甲(てっこう)、きゃはんのいでたちで、まんじゅう笠(がさ)を頭にし、自らの足を頼りに、テクテクと歩みつづける旅であった。

だが、歩くつらさよりは、和尚には暫くぶりに寺から出ての一人旅を楽しむという開放感にひたれることの方が楽しかった。目に映(うつ)る自然のすべてが、ことのほか美しく感じられたのも、そういった気持ちのせいであったのかもしれない。和尚のゆったりした足どりからも「満足感」をうかがいしることができた。

道中は、実にのどかだった。その上、快(こころよ)い日和(ひより)にも恵まれて日暮れ前に、もう熊谷の宿(しゅく)にたどりつくことができた。

その熊谷の宿に入るとまもなくのこと、和尚は野良(のら)仕事に汗する一人の農夫の姿をみつけた。途中、景色の美しさに目と心をうばわれどおしだった和尚にとっては、やっと人里に入ったことを思いおこさせる・・・そんな農夫との出会いであった。

和尚は、西日を背にして働く農夫にさっそく、

「もし、お百姓さん。今は何どきぐらいですかな?」

と、言葉をかけた。

農夫は、ひたいの汗を首にまいていた手ぬぐいでグイッとぬぐうと、

「さあてなあ。わしにも時がわからんで困っているんで。いつも聞こえてくる上州桐生の西方寺さんの鐘が、どうしたわけか今日は朝からさっぱり聞けねえもんでー和尚さんに何かあったんじゃあんめえと、さっきも野良でみんなして心配してたところで・・・」

と答えた。

農夫から、この返事をもらうと、和尚は何度も何度もうなずきながら、

「拙僧(せっそう)は、今朝早くに桐生を発(た)ってきたのじゃが、西上寺の和尚さんはすこぶる元気じゃった。でも「都合(つごう)で4ー5日は鐘が付けんようになった。少々不自由をさせるが、そのつもりでな」と里の人々に言っておられたから、どこぞへ出かけなすったのじゃあるまいかの。あんた方もお困りの様子じゃが、暫(しばら)くは西方寺さんの鐘の音は、響いてはこんようじゃ。
せっかくの仕事の手を休めさせてすまんことをした。どうもありがとうさん。」

と言い、農夫に礼を述べると、だいぶ西に傾いた太陽をみやり江戸への歩みをはやめた。

桐生在の西方寺で、大力和尚がついた鐘の音が、なんと30キロメートル余も離れた熊谷の人々の時の鐘となっていたとはー。

この話は、力士との力くらべ同様に、和尚の大力を世間に遺憾(いかん)なく伝えてくれている。しかも、聞いているうちに思わずニヤリと笑いがこぼれてしまう、和尚と農夫とのやりとりには、楽しさが十二分で、実に明るい伝承である。

大力和尚の第2話・・・以上のとおりである。

西方寺(さいほうじ)


西側墓地には、桐生家歴代の墓(市指定史跡)があり、変わりゆく桐生の様子を見下ろしている。

現在の寺は、大変規模が縮小されてはいるが、かつては七堂伽藍を備えた名刹であったと記録されている。

最近では、本堂を改築し、鐘楼も新設して、往時の伽藍に近づきつつある。とくに、本堂裏の庭園は見事で、西方寺の一つの顔になっているほど。 (昭和60年8月26日掲載)


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