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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ [Go Top Page] むかしのこと、桐生氏累代(るいだい)の城主の霊が眠る古刹(こさつ)・桐生山西方(さいほう)寺(臨済宗、安定元年・1227年創建、本尊阿弥陀如来・県重文)に、人々から「大力和尚(たいりきおしょう)」とよばれた力もちの住職がおられた。 身体こそ小さいが、大変な力の持ち主で「力」にまつわる逸話(いつわ)を多くもつ和尚の大力ぶりは、遠く江戸にまでも響いていた。 この大力の噂(うわさ)を耳にした人の中に、これまた怪力を自慢としている力士があった。 力士は、和尚の噂を聞けば聞くほど「何とか大力和尚と力くらべをしてみたいものだ」と望むようになった。そして、とうとう相撲(すもう)巡業が打ち上げとなるや、矢もたてもたまらず江戸を出立(しゅったつ)して、はるばる西方寺までやってきたのである。 「和尚の機先(きせん)を制して、是が非でも力くらべに勝たねば・・・。」 西方寺山門に立った力士は、近くの竹やぶから青竹一本を根こそぎ抜き取ると、それを タスキにして威たけ高に手合わせを和尚に申し入れた。 「それはそれは遠いところからようこそ・・・とにかく上がりはなでは何じゃから、まずは中にお入りなされ。」 玄関に出てきた和尚は、力(りき)む力士とは反対に、あくまで冷静に、いんぎんに応対し、力士を庫裡(くり)に招き入れた。 席を改めると、和尚は、 「せっかくのお申し越しじゃが、力自慢のあなた様と拙僧(せっそう)が力くらべなどとは滅相(めっそう)もない。うわさのお聞き違いなのではー」 と、丁重(ていちょう)に力士の申し入れを断った。 力士自身、初対面の和尚が余りにも想像していた大力和尚の姿とかけはなれた身体つきだったことに、いぶかしくも思っていたので、和尚の言葉に、 「どうやらワシの早呑(の)み込みだったらしい。早まったことをしたものだ。」 と、先ほどまでの意気込みをフィッとしぼませてしまった。 ねじまげた青竹のタスキをはずし、帰り支度をする力士には落胆(らくたん)の様子がありありと見えた。 その力士の背に和尚は、 「はるばる江戸から拙僧を尋(たず)ね、桐生くんだりまで来られたのも仏縁(ぶつえん)というもの。お茶の一服なりと進ぜましょう。」 と言葉をかけた。和尚の勧(すす)めに、力士は一度上げた腰をおろし、言われるがままに差し出されたお茶を口にした。 やがてお茶うけが出された。力士が手にしてみると、なんとあの固いからに包まれたクルミの実。ところが、それを割る道具が添えられてない。困惑(こんわく)した力士が和尚を見やると、和尚はいかにもうまそうにクルミを食べているのである。 「ハテ?」 力士が不思議に思いつつ和尚の手元を見ると、なんと和尚は親指と人差し指とで、あの固いクルミをいとも簡単に割って、中の実を口へ運んでいるのであった。ハッと電光(でんこう)に打たれる思いのした力士は、あわてて座布団(ざぶとん)からずりおりると、 「恐れ入りました。さすがは大力和尚、とうていワシの力などの及ぶところではありません。」 と、非礼(ひれい)の数々を詫(わ)び、両手をついて深々と頭を下げたのである。その力士にそそぐ和尚のまなざしは、仏の慈悲そのものの相であった。 この西方寺の大力和尚伝説は、ゆかいな内容の中に含ませて、 「人は、みかけだけで評価してはいけない」ということを私たちに諭(さと)している。そんな味わいのある伝承(でんしょう)なのである。 梅田町一丁目大門にあり、桐生氏の菩堤寺。梅の名所としても知られる。 安定元年(1227)に桐生小太郎藤原綱元公が浄土宗の寺として建立。応永5年(1398)に、三代・豊綱公が済家宗に改宗し、桐生山西方寺と称した。後、宝樹山・梅田山と山号を改めて現在に至っている。 慶安2年(1649)将軍・家光公より十五石七斗の下賜があったが、維新の際に上知している。(昭和60年8月12日掲載) 東武バス停「大門」から、およそ100メートル下っての十字路を右折すれば、そのまま直進で、西宝寺山門に到着する。
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