黒幣の天狗

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桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........

崇禅寺の阿弥陀如来
(川内町二丁目)



 阿弥陀如来像の造像を手伝った二人の僧は、仏の化身だった。

三十七日間の参籠祈願萬願の暁に春日明神から不思議な夢のお告げと小太刀ひと 振りを与えられた仏師・賢門子(けんもんし)は、心新たにして早速懸命の阿弥 陀如来の造像にとりかかった。

さて、この作業に入って間もない日のことだった。一心不乱にノミを振るう賢門 子のもとへ二人の僧が訪れて助力を願いでたのである。 「御師は、尊い仏様を刻まれておられる最中と聞いて参りました。その立派な仕 事の手伝いをぜひ拙僧たちに命じて欲しい。」と・・ どこか貴品の漂う僧たちの姿と、言葉の端々ににじみ出る熱意とに心を打たれた 賢門子は、その申出を快く受け入れた。

願いが聞き届けられると、僧たちはすぐさま衣のすそをたくし上げ、まるで休む ことを忘れたかのようによく働いた。そして日が暮れると夜のとばりの中を何処 へともなく立ち去っていったのである。

翌日も賢門子が作業をはじめると、どこからともなく二人の僧が現われ 甲斐がいしく働いて夜にはやはりソッと闇の中に姿を消していった。 以後、賢門子のもとには、この二人の僧が必ず現われて手伝いを続けるようにな った。それも作業開始時刻の打ち合わせがしてあるかのように、いつも賢門子の 作業開始に姿を見せ、一日中、賢門子の手足となって働き、夜を迎えるととばり の中を去って行くのだった。時には賢門子の気付かない間に姿を消していること さえあった。

この不思議な僧たちの助力で作業は大変にはかどり、やがて黄金色に輝く阿弥陀 如来木像が完成した。名仏師・賢門子が一世一代の晴れの仕事とし、精魂込めて 刻み上げただけに一段と見事な出来映えだった。

われながら、見とれるほどに立派に完成した像の素晴しさに、長く厳しかった作 業の疲れも忘れて賢門子は喜びにひたった。 そして作業を見守り続けてくれた春日明神と献身的な助力をしてくれた二人の不 思議な僧たちに心からの感謝を捧げるのだった。

この阿弥陀如来像完成で賢門子の名声は更に高まり、多くの賞賛の声が賢門子の もとへよせられた。

と、一緒に「賢門子さまのもとで造像に助力された坊さんは、実は観音様とお地 蔵様の化身だったそうな。」という噂も巷に広まっていった。 賢門子はこの噂を耳にすると、当時の不思議な僧たちの行動を想い起こし、春日 明神のありがたい心配りに改めて両手をあわせるのだった。

阿弥陀如来像はこうして誕生し、天智天皇(661ー671年)の念持仏とな り、長らく宮中にまつられた後、やがて法然上人に下賜された。 このような縁起を持つ阿弥陀如来像が、なんと今は、桐生市川内町一丁目の山ふ ところに抱かれているのである。

それはこの地出身の智明上人(小倉の上人ともいう。宝治2年ー1248年没) が仏縁拡張のために帰郷する際、師の法然上人から像を拝領し、京からはるばる 牛の背にのせて運び入れたからである。

京と桐生を結ぶ、まさに仏縁である。

薮塚本町には、同町指定の重文『牛の塔』があり、かつては、旧相生村に「如来 堂」の地名があった。これはともに阿弥陀如来像が川内町に運ばれる途中に起き た「できごと」に由来するものである。

昭和33年8月1日、この阿弥陀如来像は、県重要文化財に指定され、智明上人 自らが開山の万松山崇禅寺(臨済宗、元久二年=1205年創建)の本尊とし て、以前にもまして善男善女の崇拝を一身に集めている昨今である。


参考

崇禅寺(そうぜんじ)

川内町2丁目にあり万松山崇禅寺という。臨済宗建長寺派。園田荘司・園田太郎 茂家が仏門にはいり、智明上人としてこの地にはいり、寺を創立して開山となっ たと伝える。元久二年(1205年)という。 この寺は、阿弥陀様のお寺として知られるが、更に精進料理、朝がゆ、文学の小 道等々の寺としても近隣に広くしられている。


智明上人(ちみょうしょうにん)

知明と記する文献もある。園田太郎茂家が正治二年(1200年)秋、大番勤仕 で京の都へ上ったおり、法然上人に深く帰依し仏門に入った。そして法名を智明 と称した。六年後に帰郷し、庵をむすんで、念仏三昧、心に極楽往生を説いた。 近隣の人々は、小倉の上人と尊びあがめた。 宝治二年(1248年)九月十六日七十五歳で還化。墓(宝印塔)が園田家墓地 に現存する。

郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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