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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 菱町上菱 緑濃い山々が、東西から迫る県道上藤生線を遡ると、やがてのどかなたたずまいの市立梅田中学校の校舎が姿を見せる。 この梅田中学校の北側、桐生川の対岸を望むと、樹間にひときわ鮮やかな、赤い大きな屋根が見られる。 旧村社、塩之宮神社である。新田徳純(にったとくすみ)書といわれる「正一位塩之宮神社」の大篇額、猿田彦之神をまつる「安産信奉の神社」として広く知られる、この塩之宮神社にこんな物語が残されている。 その昔、奥州の雄・藤原秀衡の家臣に小島民部と言う医師がいた。この小島民部一族は、文治四年(1188年)に藤原秀衡が没し、その子泰衡が源 頼朝の軍勢に討たれると、ひそかにその地を脱した。そしてのがれ逃れて遠来の地の桐生領に入り、梅田の里に土着した。 民部には三人の子供があった。その子供たちが、上菱、浅部、湯沢の地にそれぞれ居を構えた。そして一族は、小島家の氏神として上菱に小社を建立した。 いまわしい過去を忘れ、一族の今後の繁栄と安泰を願っての建立であったろう。これが現在の塩之宮神社の前身である。一族の繁栄を願っての小社建設・・・ 一見何の変哲もない現象のようであったが、この氏神建立は「どこにでもあること」ではすまされない伝えがあっった。ご神体が、なんと奥州・塩竃神社の分身だったからである。 民部は、奥州の地を離れる際に塩竃神社に立ち寄り、その分身を持ち出した。桐生領にたどり着くまでには様々な苦難があった。しかし、民部は多くの苦難に耐えて、分身だけは肌身離さずに運んできたのである。 さすがに、塩竃神社の分身・・・その恵みは小島一族だけでなく、隣人は言うまでもなく、近隣の人々にまで「安産」を保証し、たいへんな信奉を集めるまでになった。 ところが、この「安産の神」の信奉が高まるにつれ、里人と小島一族の間に、少々きな臭い煙が立ちのぼってきた。そして、それが一騒動にまで発展してしまったのである。 里人たちが、「これほどにありがたい神様は、このままにしておかず、なんとかして村の鎮守様としておまつりしたい」と言う願望を芽生えさせたからである。 里人は、機会あるごとに代表を送って、小島一族に里人の願望を実現させるべく申し入れを繰り返した。しかし小島一族は、建立の趣旨を盾に、あくまで一族の氏神にしておきたいと、申し入れをやんわりとかわした。 だが里人はあきらめなかった。村の顔役をも介して、再三再四の申し入れ行った。が、その都度小島一族はたっての断わりを続けたのである。交渉が長期化するにつれ、里人と小島家の間は険悪な雲行きとなり、「下手をすると血の雨が・・」との噂が流れるほどになった。 あまりにも感情的になり、こじれにこじれてしまったこの問題は、ついに役人の出張るところとなり「お上のご威光」とやらで無理やりに決着をつけさせられることとなった 一族の氏神として祭しを続けたいと言う小島家。人々の絶大なる信奉を集める神だけに、ぜひ村の鎮守としたいと言う村人たち・・・いずれに是、いずれに否があろうとも、この騒動は塩之宮神社が「安産願望」の人々に絶対の信奉があったことの、うらづけである事に他ならないわけである。 役人が仲介して一件落着となったこの騒動ーーいったい、どんな条件が出されたのだろうか。? それは、 ※小島家は、塩之宮神社を村の鎮守とすることを認めること。 ※塩之宮神社の社紋は、小島一族の家紋「マルニクリヌキ」紋を用いること。 ※祭りの際の供物、赤飯は小島家が炊き上げ、供えること。 と言ったことであった。 塩之宮神社は小島家の手から形の上では村人の手に移ってはいったが、祭りの実質は小島家のもとに残り、両者の言い分が共に通る名裁判であったと言えよう。 以後、この裁きにのっとり。塩之宮神社の祭礼は重ねられてきて、今日に至っている。それにしても、この騒動は塩竃神社関係者にとっては、まことに気になる話題であろう。 しかし、この際、分身本物説の真偽追及などというヤボなことはさておいて、両神社がともに手をたずさえて繁栄していくことを望みたい。これこそ信奉者の偽らざる気持ちなのである。 参考 塩之宮神社(しおのみやじんじゃ) 祭神は猿田彦大神(塩津知之大神)である。この塩之宮神社の創建は永録元年(1558年)八月と伝えている。 小島氏はもと、大島氏を名乗っていたが、故あって、天正のはじめに現姓にあらためて帰農し、その時、氏の守護にと尊信していた塩竃大明神を勧請して、小島一族の守護神とした。このことが「分身本物説」を生んだのかも知れない。 梅田中学校を過ぎて、桐生川にかかる瀬場橋をわたり少々下ると塩之宮神社の参道となる。 |
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