黒幣の天狗

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桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。


梅田町四丁目

江戸時代中期の人で、寛政の三奇人の一人にあげられ、また尊王倒幕の先駆者としても知られる高山彦九郎(現太田市出身・1747ー1793)が、安永4年に桐生を訪れている。そして、その模様が『高山彦九郎日記』に詳しく述べられている。

その日記の中で、忍山温泉入湯のことが『忍山湯旅の記』として、これまた詳細に記されている。この日記に登場する忍山温泉は、残念ながら現在は営業されていないが、現存する建物のそここに『仙気・脚気・痔疾等に効き目のある湯』といわれ、多勢の湯治客が訪れた往時の面影を残してくれている。

昔、木こりが山の上から湯煙のあがるのを見たことから世に出た温泉といわれるが、ここには桐生氏と由良氏との政争にまつわる伝説をはじめとする禁忌が、今なお脈々と息づいているのである。

足利幕府の滅んだ年、天正元年(1573)を迎えると、水争いに端を発した桐生、由良両家の対立は、まさに一触即発の風雲急を告げていた。このときに忍山温泉に一つの事件がもち上がったのである。

桐生領主、親綱公は、ここ忍山温泉がお気に入りで、城主専用の浴室を設け、激務の合間にも時おり訪れるほどであった。この領主の浴室にひん死の葦毛の馬が投げ込まれるという事件がそれであった。

『ひどいことを…。なにも浴室へ馬など投げ込まなくてもいいだろうに。』

『まったくだ。これは、由良の間者の仕業にちがいない。きっと御領主様へのいやがらせにやったのだよ。』

しばらくの間、忍山温泉の話題は、この事件でもちきりとなってしまった。

湯治客のうわさどうり、この事件は由良の間者が親綱公へのいやがらせにやったものだった。由良方の思惑どおり、大事な浴室をひん死の馬の血で汚された親綱公は、烈火の如く怒った。しかし、この事件は親綱公以上に、湯の神の怒りを招き、温泉がたちまち冷泉に変えられてしまったのである。

楽しみの湯、憩の湯を奪われてしまった湯治客の落胆振りは見るも哀れであった。

『由良の間者め、ご領主様の怒りを招いただけでなく、わしらの楽しみまでも消してしまって…』
『こんなことをされちゃあ、神様がお怒りになるのはあたり前。それにしても残念なことだ。』

と、温泉のなくなったことをしきりに残念がったが、どうしようもなかった。

この事件があって間もなく、桐生、由良両家の合戦(3月12日早暁)が始まり、わずか一日にして桐生方が大敗し、名家桐生氏は滅んだ。そして、桐生の里は、由良家が支配するところとなって再び平和が訪れた。

が、とうとう忍山温泉だけはもとには戻らなかった。一時は湯治客の往来でにぎわった忍山道も人影が絶えてすっかりさびれ、やがて『忍山温泉』の存在すら人々から忘れ去られていったのだった。


長い年月が過ぎ去った。そして世は文録期(1592ー1595)を迎えた。すると、

『いい話があるよ。忍山の湯がまた使えそうだとよ。』
『それ、ほんとうかね?』
『忍山の人たちの話だから、まちがいなかろう。』
『そりゃあ、よかった。また忍山がさかることだろうよ。』

こんな話が人々の口にのぼるようになり、再び忍山道を歩む人の姿で、かってのにぎわいを見せるようになった。ただ、昔と違うことは『葦毛の馬は、絶対に村に入れるな』ということが言い広められ、人々がそれを固く守るようになったことだった。忍山温泉が、また冷泉になることを恐れての村人たちのいましめの言葉だったのである。

葦毛の馬の冷泉事件以後、明歴期(1655ー1657)には、忌あけのすまない人の入湯で熱泉になりその後、屠殺業者夫婦の入湯で冷泉になるという変事が、この忍山温泉に重なった。そのために、この三つの事件から『忍山温泉の三禁忌』が生まれ、やがて、村そのものの禁忌にまで広げられた。

忍山の湯を時には水に、時には熱湯にかえてしまった三度の変事…。この三度の変事に共通していることは、どれも不浄ということであった。

湯は多勢の人が心身を洗い清めるところ。それだけに『常に清潔でありたい』という人々の願望から、湯の神に結びつけたこういった禁忌を生み出したのだろう。

清流、忍山川の流れに添って様々に変化する美景の地『忍山』。秋の紅葉期の美しさは珠のほかで、何度足を運んでもあきることのないところが、忍山の魅力である。この美しい自然の中に、再び昔のにぎわいがもどるなら…。こう願う人たちは少なくない。民話が語る往時のにぎわいをぜひこの目で見たいものである。

参考
忍山温泉(おしやまおんせん)

『永録元年(1558)の発見、温度華氏96度以上120度以下、品質塩素化合物多量、効用慢性皮膚病、旅舎一戸』と明治43年発行の梅田村郷土誌で紹介される。また、高山彦九郎の『忍山湯旅の記』の安永4年(1775)8月7日の頃に
『今日吉右衛門に云いて桐生忍山温泉縁起と云ふ一冊を借る。見るに何れの代の年月や樵夫山に登りて温泉の湧出を見て里人知らして是レより4時往来たえずして浴場の人を以てこの里大いに繁昌す。この湯の流れゆく所を湯沢と云ふ。今湯川是レ也』の一文が見られる。

忍山温泉の冷泉化伝説は、この高山彦九郎日記にも記録され、また、みやま文庫『上州の温泉』でも紹介されている。

当主は大川清一郎氏で、現在は営業していない。    

郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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