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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 梅田町3丁目 ある月の美しい夜のことだった。領内巡視の任務を帯びた桐生家の家臣一行が、高沢川に沿った細道を何やら声高に話しながら歩いていた。 話しの内容は、どうやら名月を賞でたり、自分たちの剣の腕を自慢しあったりの他愛のないもののようだったが、それでも任務への心配りは怠りなかった。 一行が高園寺(桐生市梅田町3丁目在、曹洞宗、本尊・聖観音、応永年間(1394〜1427年)開山と伝える)の近くまで来た時だった。 先に立って歩いていた武士が後ろからの一行の歩みを押し止めた。 「おい、何かあったのか?」 仲間の武士たちは、足音をさせないよう小走りに先頭の武士のところへ寄った。 「いや、ただ、寺の境内から、妙な音が聞こえたように思えたのだが・・・」 「妙な音が寺の方から?」 「この夜更けに寺から妙な音とは・・・気のせいではないか」 仲間のこの言葉に歩みを押し止めさせた武士は、一瞬ソラ耳だっだかと自分を疑ったようだが、それでも 「わしの耳には確かにもの音が聞こえたのだ、もう少し様子を見てくれんか」 と仲間を制した。 一同も「それもそうだ」と、しばし、その場にたむろして時を待った。と、待つ間もなく、水を撒くようなザザーッ、ザザーッという奇妙な音が境内から伝わってきた。 「ウーン確かに妙な音だ。今時分、この音はあやしいわい」 一同は互いに目配せをしあうと、忍び足で寺に近寄った。 妙な音は、本堂脇の小さな池から出ていた。それはひとりの小僧が、馬の背や足に水をかけ、一生懸命にタワシで馬のからだを洗い流している音だった。 「ウーン、すばらしい馬だ」 一同は先ほどまでの不審さを忘れて感嘆してしまった。それほど堂々たる名馬が、目の前にあったのである。 このことは、その夜のうちに報告され、領主・桐生綱元公の耳に届いたことは言うまでもない。綱元公は大変に喜ばれ、さっそく使いを高園寺に走らせて、その名馬を買い上げた。 「名月の夜、池でからだを洗って磨き上げられて育った馬じゃ、池月と名付けようぞ」と、名馬に「池月」の名をつけて鎌倉の源 頼朝公に献上した。 「木曽義仲追討で、宇治川に対陣した義経軍の中から、梶原源太景季と佐々木四郎高綱の二騎が、すばらしい先陣争いをした。見事な駆け引きの末に佐々木が先陣の名乗りをあげた。その佐々木の乗馬が「池月」だった。 との知らせが献上後間もなく桐生領に舞い込んだ。家中は、この知らせを我がことのように喜び、池月の活躍ぶりをそれぞれにマブタに描いたのだった。 先年「池月は西日本の産であった」と言う一流紙の報道があり、地元民をいっとき落胆させたが、池月を産んだという高園寺の池は今も昔のままに現存しているし、池月と共に先陣争いをした「磨墨(するすみ)は隣地飛駒より産するなりと(山田郡誌)」と言う伝えもあり、梅田町には馬にかかわる地名や伝説が多いことから「おらが町は名馬ゆかりの土地」という誇りは失っていない。 それに、なによりも宇治川の先陣争いという史実が、地元民の身近に寄ってきてくれたという喜びを感じとっていることは事実なのである。 参考 高園寺(こうえんじ) 梅田町3丁目の杉木立に囲まれた山ふところの中にある。山号は鶴松山。この寺については梅田村郷土誌に次ぎの一文がある。 「高沢字寺前にあり。松堂長源和尚の開基にして曹洞派、本山は、天文のころ、長源和尚創立当時、越前国永平寺亘末なりしが、天正年間にいたり焼失。衰退せしを、寛永年間、儀招牛把和尚中興開基、旧に復し、以後、鳳仙寺末となる。開基長源は、玄翁和尚の直弟なり」 伝説のある池は、この寺の本堂左手に現存する。 ホームページ作成 斉藤茂子 |
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