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シリーズでご紹介いたします。 菱町三丁目 菱小学校の南方、上平の地に入ると、開発ですっかり姿を変えて住宅団地 になってしまった十貫山とは対照的に、緑の木々に囲まれた宇都宮神社の のどかなたたずまいが、その山麓に姿を見せてくれる。 宇都宮神社は応永十九年(1412年)に菱領主・細川丹後が河内郡の 二荒山神社を分社し黒川宮の谷にまつったと言う創建の由緒と歴史の古さ を残す菱町の誇る神社である。しかし桐生市民の多くには、天正元年(1 573年)三月十二日払暁、桐生城攻撃に向けて由良氏の精兵が集結した 史跡の地として理解されている。 その社殿の裏手を細い生活道が東側山腹へ向けて通じている。駒ころばし を経て風穴へ出る道である。八王子峠を越える県道が開通するまでは桐生 ー足利を結ぶ主要道路であったが、今は人通りもほとんど無く、あたかも 山道のように変貌してしまった。 その山道化した道路を歩むこと300メートルほどの北側奥に小さな稲荷 神社が建つ、そこが伝説の地「灸点稲荷社」である。 道路同様にすっかりさびれて、現在は小さなお堂と石鳥居、石灯篭、それ に手洗石を残すだけ・・・ 「かつては無数の鳥居が立ち並び、参詣人が列をなして大変な賑わいだっ た。祭礼には屋台店も多くでたものだと言う」。。との近所の人たちの話 がウツロに響くほどの寂しさである。 ところで近所の人たちが言うかつての大変な賑わいは、いったい何に由来したのだろうか。「それはリューマチや神経痛にご利益があったからだ」 と言う。 病に苦しむ人々が、この稲荷神社に詣でて、一夜を参篭し、一心に祈願を すると翌朝には灸のツボが身体に黒々としるされ、その部位に灸をすえて もらうと、医師がサジを投げたほどの重症患者でさえも、不思議とまるで 薄皮をはぐように快方に向かったのである。 リューマチや神経痛だけではなかった。全身のもろもろの痛みに悩む人々 でさえも、参篭によって功徳にあやかれたのだった。 この功徳を伝え聞いた参篭者は、近郷近在からはもちろん、遠く武蔵の国 にまで及び、狭いお堂からはみ出る始末だったと言う。 参篭できないほどの重症者や参篭からはみ出てしまった人には、祭礼に立 てるノボリ旗を身体に巻いても痛みが去り、快方に向かわせると言う別の ご利益もあって、ノボリ旗借り出す人々もあり、また、参詣するだけでも 痛みが遠のくと伝えられたため、ふだんの日にも参詣人の波が押し寄せた のである。 現存する鳥居、灯篭、手洗い石にはそれぞれ安永九年(1779年)天保 五年(1834年)天保十三年(1842年)の記年銘があり、信仰の盛 んだった時代を想起させている。 近くの老人の話しでは、「大正から昭和初期にかけては、まだまだ参篭も 盛んで数十基の鳥居が社殿を飾っていた。しかし 「いやいや、このめざましい医学の発達を見ては、ワシの出番はないよ」 なんてつぶやきながら、お稲荷さんは、どこかの隠居先で笑っているかも しれない。 灸のツボを示してくれたという灸点稲荷・・・さびれたとは言え、旧暦の 初午の日には、現在も紙製のノボリ旗を社前に立てる参詣者は多く、神酒 をくみ、赤飯をほおばる老若男女の姿が、昔の盛んな賑わいぶりをホウフ ツさせてくれる。 あわただしく移り変わる世の中にあって、いっときではあるが、庶民のか すかなともし火を見せてくれる灸点稲荷は、土のにおい、祖先のおもかげ を訪れる人たちに感じさせているのである。 参考 灸点稲荷(きゅうてんいなり)菱町3丁目 菱町黒川、旧十貫山(現在は桐陽台住宅団地)西側にこの社はある。 宇宮の谷といわれるところである。、社前の小道は、かつての桐生と足利 を結ぶ要路であったが、八王子峠を越える現在の県道が完成してからは、 すっかりさびれて、通行人も稀となってしまった。 神社への参詣人で賑わったのは、江戸時代から大正期までであるが、大正 末期でさえ幾十の鳥居が立ち並びおこもりも盛大で、屋台も軒を連ねたと 言う古老の話しに盛んだった当時の様子がしのばれる。 現在では、和田、小此木、久保田三家が合同でお祭をしているとのことだ |
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