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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 寛治元年(1087年)清原家衡と武衡の挙兵によって起きた出羽の乱 を平定すべく、奥州へ向かう途中、八幡太郎義家公は、広沢村の地へし ばし足をとどめられた。旧暦十月初旬のことだった。 義家公は村に入ると、直ちに人足として村内の男衆を多勢召し抱えられ た。厳冬の奥州に荷を運ぶ男衆が、一人でも多く欲しかったのであろう 働き盛りの村の男衆の大部分が、この時に戦地におもむく事になった。 村は野良仕事が一段落して、間もなく十日夜を迎えようとしていた。 十日夜は、農民にとっては欠くことのできない重要な祭りである。 しかしその十日夜を迎えることなく、義家公の軍勢はその日の早朝には 村を出立することになっていた。 農民が農神へ感謝の気持ちをあらわす厳粛な祭り「十日夜」を行わずに 父が、夫が、わが子が厳冬の奥州へ旅立たなくてはならないのである。 村人たちは寄り集まって良策を思案した。そして十日夜の祭りを一日早 めて、九日の夜にすることで衆議の一決を見た。 九日の夜は、目を見張るほどの賑わいであった。 農神への感謝と合わせ て、戦場へ赴く男衆の無事を願う家族の心、そして、しばしの別れを前 に精一杯に祭りに打ち込む男衆の姿が、例年の十日夜に倍する盛り上が りを生んだのだった。 翌朝早く、義家公の軍勢は広沢村をあとにした。男衆も家族に名残を惜 しみながらも、征討軍とともに村から遠ざかっていった。 奥州での義家軍は、不慣れな冬の合戦に苦戦を強いられた、しかし、飛 ぶ雁の乱れに伏兵を察知し、これを破ったことをキッカケに清原氏を金 沢柵に包囲し、ついに勝利を得たのだった。 男衆の無事帰還は村に残された家族たちにとって何よりの戦勝報告にな った。 やがてこのすばらしい出来事を記念して、広沢村では、十日夜にかえて 九日夜(ここのかんや)を盛大に祝う「九日夜の餅」の風習が広まった のである。 桐生市広沢町には、こんないわれのある風習が伝えられている。 ところで寛治元年といえば後三年の役終焉の年でありこの年の八月、 義家公はすでに奥州に在り苦戦を重ねていた。 「この苦戦を知った新羅三郎義光が、都から下向して兄を支援し、寛治 元年十二月十四日に、やっと清原氏滅亡へと追い込んだ」 と史書にある。寛治元年の十日夜近くには義家公は広沢村には寄れるはず がなかったのである。 広沢村には義家公の家臣、周東刑部成氏(しゅうとうぎょうぶなりうじ) が住んでいた。そのために、義家公と結びつけられて生まれた伝承なのか も知れない。あるいは下向中の義光公が兄の家臣のもとへ立ちよったこと から、歳月の経過とともに「義家公の広沢村立ちより」説にすりかえられ たのかも・・・ いずれにしろ「オラが村に源氏の大将が立ちよった」事に誇りを持ち、さ らには奥州に旅立った父、夫、子の武運祈願が叶えられた九日夜の祭に、 村人たちは大きな喜びを感じとっていたのであろう。 広沢町に伝えられる九日夜の祭り。そして「九日夜の餅」風習には、そう 言った往時の村人の感情が秘められているのである。 |
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