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シリーズでご紹介いたします。 梅田町1丁目 「天保十四年卯年(1843年)三月十二日朝四ツ時ヨリ当所丑窪山ヨリ出火荒神ヘ移リ荒神堂焼失 町屋押出中里下菱小友小俣入り町屋迄、都合八ケ村類焼(以下略)」の記録が、桐生市天神町三丁目・久昌寺の過去帳に見られる。 この稀にみる大火は「荒神の大火」といわれて市史にも記録されている。しかし、この大火の後日談はすでに色あせて、人々の脳裏から忘れ去られようとしている。 そこでこの後日談を再度よみがえらせて見たい。 この大火は失火犯人として金八という若者が捕えられ、火あぶりの刑に処せられて一件落着となった。ところが処刑後に「犯人は金八さんではなかった。金八さんは、村の顔役の身代わりになったのだ。」と言う噂が広まり、村内をゆすったのである。噂が広まるにつれ、金八の死は多くの人々の同情をかった。そして 「このままでは金八さんは浮かばれまい。盛大に供養をして成仏してもらおう。」と言うことになった。 ほどなくして、村人の浄財で梅原館(うめはらやかた)(市指定史跡)の薬師堂 脇に立派な地蔵石仏が建立された。村人は、「金八地蔵」の名を贈り、真心こめ て供養した。 金八の死後、村内には奇妙な出来事が続出していた。それが供養後はまるでうそだったかのように途絶えたのである。その上、桐生川が増水して氾濫しそうになると、金八地蔵は全身を真っ赤にして村人に危険を知らせてくれるようになったのである。度重なる奇蹟に「金八さんも成仏されたらしい」と、村人は安堵し金八供養の念を一層強くしたのだった。 世はやがて大正の時代となった。そのある年のこと、天満宮近くの料亭で奇妙な出来事が続いていた。料亭で祈祷師を招いて祈祷してもらったところ、「濡れ縁そばの石が金八地蔵のもとへ帰りたがっている。その石を元に戻せば事件はおさまる。」と告げられた。 この石は金八地蔵の台石で、暫く前に某石工が酒代がわりに料亭に持ち込んだものだった。 台石はすぐさま金八地蔵のもとへ戻された。だが、桐生川が危険状態になっても、金八地蔵は全身の色を変えてはくれなかった。 「こういう事件があっては、金八さんも気分が悪いことだろう。私が改めてねんごろに供養してあげよう」様相が一変してしまった金八地蔵を見て、宮内に住むある御人が金八地蔵を梅原館から久昌寺に移して前にも増して盛大な供養を行っ た。 「金八さんもこれで気分を直してくれるだろう」と、村人は宮内の御人の温かい心づかいを喜びあった。 供養後まもなくのことだった。篠つく大雨となり、夜半となっても雨足は衰えず、桐生川はたちまち増水して危険状態となった。そして翌朝早くに出水して、多くの尊い生命を奪ってしまったのである。この時も金八地蔵は危険を告げてはくれなかった。村人が胸中に大きく不安の火を燃え上がらせてしまったのは言うまでもない。 久昌寺に今も建つ金八地蔵・・・その相は仏の慈悲相そのものである。長い歳月の経過に金八が全身を赤く燃え上がらせてくれた当時の心をとりもどしてくれたのであろう。・・・ 土地の人々はそう受け止めている。 参考 梅原館(うめはらやかた) 天神町から梅田1丁目に入って、旧道をさかのぼることおよそ100メートル。 西側に史跡、梅原館跡の説明版が見られる。金八地蔵は当初、処刑地に建てられたあと、この地に移転安置されたと言う。 梅原館は、桐生城を築いた後、桐生氏が鎌倉末期に平地館として構築したものと考えられ、外郭に堀を巡らし、土居を築き、中に主屋、遠侍、馬屋などがあった。(史跡梅原館より)と伝えられている。 当時のものとしては土塁を存するのみだが、敷地内には薬師堂が建てられて、往時を推測する手掛かりになってくれている。 |
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