桐生市を代表する河川として、日本三大清流の一つである桐生川がある。
この桐生川は、弘法大師登頂伝説や伊井家(大老)祈願所伝承を残す根本山(標
高1197メートル群馬・栃木県境にそびえる)に源を発し、桐生市の東端を流れ下って、栃木県足利市小俣町近くで渡良瀬川に合流する。一時は、かなりの汚染ぶりを示し、たいへん心配されたが、「カンバック清流桐
カ川」を合言葉にした市民の熱心な清浄運動が効を奏し、最近では、その清らか
ウをとみに倍増させて、以前に劣らない澄んだ流れを渡良瀬川へと注いでいる。
市内を延々と流れるこの桐生川に、まるでまつわりつくかのように広がる大地。
そこに菱町がある。桐生市の地図を広げると、その菱町の東に「風穴」と言う変わった地名がしるさ
黷トいる。 アの風穴に、珍しい大蛇伝説が地名の由来として現在に伝承されている。その大
ヨ伝説を今回はヒモといて見よう。
天保十四年(1843年)三月のことだった。下久方村(現在の天神町三丁目近
モ)の荒神山付近から発した火の手は、あたりに次々と飛び火して、空前の大火
ニなってしまった。火災の原因はたき火ともつけ火とも言われたが定かでない。
折りからの強風にあおられた火勢は、一昼夜荒れ狂っても、まったく衰えを見せ
ネかった。広大な荒戸野(現在の東1丁目〜7丁目)から境野村の一部を焼いてもとまるところを知らず、桐生川を飛び越えて、なおも菱村の地にまで魔の手を
Lげていったのである。その火の手のほうも、菱村全域をなめつくした上に、さらに隣村の濁沼まで達して、やっと下火になると言う荒れようだった。
この大火はあまりにも被害甚大だったところから「荒神の大火」「天保の大火」と称され現在なお、桐生の大火記録として人々の語り草になっている。桐生町の
ゥなりの範囲にわたって、三十余時間も暴れまくった大火だったが、この大火の
中にもう一つの救いがあった。それは奇蹟の誕生があったことである。その奇蹟が、これから述べる地名の由来につながる訳である。
菱村の旧家に青木家(現在の当主は青木繁太郎氏)がある。この青木家は代々村
の西側の高台にある名家とは言っても、あたり家々山林をなめつくして押し寄せ
髢メ火の前には、助かる見込みはとうていなく、他の家々同様に由緒ある屋敷 も、灰と化すのは時間の問題と見られた。青木家の一族は、住み慣れた屋敷が火の手に包まれる無念さと未練とに激しく心
をゆさぶられながらも、
近づいた猛火にせきたてられるように重い腰を上げた。やがって、わずかばかりの手荷物を持った家人が坂を下り始めたところ、なんと、あれほどの勢いでまっしぐらに青木家目がけて押し寄せて来た火の手が、突如として青木家のある高台を避けてゆっくりと迂回を始めたのである。
あまりの不思議さに家人は一瞬わが目を疑ったが、わが家を振り返った目に飛びこんできた異様な光景に、一同「アッ。」と驚きの声をあげた。
青木家の裏山には、昔から大きなホラ穴があった。このホラ穴は、いつの時代に
スの目的で掘られたのかはわからなかったが、年間通して等温を保っていたこと
ゥら、青木家では、長い間、蚕の種紙保存の場所として利用していた。
そのホラ穴からこれまでにたったの一度もお目にかかったことのない巨大なオロ
`が鎌首をグッと上げ、押し寄せる火の手に対し真っ赤な口をあけてアラシを吹
「ていたのだった。このオロチのアラシに、さしもの猛火も火勢を弱らせ、高台を避けるようにして
小俣濁沼方面へと延焼する形になったわけである。
全村丸焼けの中に、たったの一軒、この青木家だけがまったくの無キズで類焼をまぬがれた。この不思議な事実が人々の話題にならないはずはなかった。それだけではない。
アのことは村の復旧に汗する村人たちの大きな励まし、心の支えにさえなった。「わしらの村には、神様がついていなさるのだ」と・・・・
ハラ穴から大蛇が身を乗りだし、風を吹いて火の粉を追い払ったーーーと言う事
から、やがてだれ言うとなくこの辺り一帯を「風穴」と呼ぶようになった。そし
ト今のなお地名として生き続け、百四十年ほど前の出来事を私たち、ソッと語りかけてくれているのである。
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参考
風穴(かざあな)
菱町の旧中小友と曲松との間にあたる地域一帯を「風穴」と言う。そしてこの地
シを生んだ穴は青木有恒さん宅の竹やぶの中にある。今はほとんど消滅に近い小さな穴になってしまったが、明治の半ばごろまでは、
たいへんに大きな穴だったと言う。このことについては有恒さんの実父繁太郎さん(故人)が次ぎのように話されている。昭和44年収録」「わたしんちの裏に今も小さい穴がありますがね。もとは大変広くて大きかったもんですよ。なにしろ、わたしが子供の頃は、ムシロを三枚ほど敷いて、中でよく遊んだくらいですから・・・なんでも
アの穴は、裏山の下を通り抜け、駒ころばしへ出られたんだと言いますよ」さらに昔は、この穴の中でトバクがよく開かれたこと。蚕の種紙貯蔵所にもなっ
スと話された。いつごろ、何のために掘られたかは不明である。
この稿おわり
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