黒幣の天狗

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桐生から古く伝えられる 民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........


(かきづかみょうじん)
 広沢町1丁目

おいしそうな柿の実だがこれを食べれば命がない。。
こども達が誤って食べても罰を与えないで・・と親たちは明神さまを祭った。

昔のこと、広沢町一丁目字藤生に高さ3メートルほどの塚があり、その上に大きな柿の木がそびえ立っていた。その柿の木は、暑い夏がすぎ、ススキの穂が頭をゆする頃になると、毎年たくさんの赤い実を枝いっぱいにみのらせた。それはうまそうな大きな赤い実だった。しかし、近所の人たちは、誰ひとりとしてその実を取ろうとはしなかった。

「実をもいで食べようものなら、たちどころに重い病気にかかってしまう。」
「悪くすると毒に当たって生命を奪われる。」と、言い伝えられて来たからである。
その柿の木のもとに、いつの頃からか立派な石宮が安置された。

「こども達が誤って柿の実を食べても、罰をあたえないで欲しい」と願う子を持つ親達が相談し合って、柿の精霊を安んじようとまつった明神様だった。
秋が深まり、トンボが群舞する青空には、このたわわに実った柿の実の赤い色は鮮やかに映えた。ことに夕焼け雲の紅色との競演は、まさに一幅の絵でもあり、むかしからの忌まわしい伝えをしばし忘れさせた。

それでも、子供たちは明神様の加護をまつまでもなく、決してその赤い実に手を伸ばすことはしなかった。恐ろしい伝承を親たちが口がすっぱくなるほど言い聞かせていたからであろう。タワワにみのった実は、ただ、野鳥たちのついばむがままに、冬の木枯らしが吹くころには、ひとつ二つと姿を消していく・・・これが毎年の繰り返しであった。

このように長い年月、土地の人たちに恐ろしいにらみをきかせてきた柿の木が、昭和のはじめに桐生地方を襲った大風のために倒されたのである。倒れた柿の木は、里人によって取りかたずけられ、塚の上は切り株だけが残された。その塚には柿の実にかわって、今度は近所のこども達大勢の姿が見られるようになった。心配事がなくなり、親たちの注意が消えたからかもしれない。

切り株は暫くは石宮と一緒に塚の上に並んでいたが、戦後間もなく掘りおこされた。塚の上が石宮だけにになると、こども達は一層群がって遊びほうけた。そのために小高かった塚も、たちまちに背を低くして、やがて田んぼに姿をかえていった。あとには石宮ひとつがポツンと取り残されるだけとなった。
これが「柿塚明神」として地元に残る伝えの全容である。
この柿塚明神の地を私が訪れた頃は、夏には早苗が揺れ、秋には黄金色の稲穂が頭を重くたれる田んぼが広がって「小高かった塚が、背を低くして田んぼに・・」の伝えをよく残してくれていた。

しかし近年急速に町が発展し、その田んぼは、家々が軒を接して並ぶ住宅地となってしまった。今は秋を迎えても赤い実は勿論、とんぼも黄金色の稲穂も見られず、昔の面影はない。ただ、幸いにも「柿塚明神」の石宮だけは、もとの場所に安置され、近くの大沢さんが見守ってくれている。

時代がどんなに変わろうとも、変わることのないもの・・・それはこどもに寄せる親の愛情である。
その美しい親の愛を物語る美しい伝承が、昔のままに広沢町に息づいており、折この地を訪れる人々に、今も明神さま自らが、その証人がてらソッと語りかけてくれるのである。

参考
柿塚明神(かきづかみょうじん)

広沢町一丁目のミツバ電機KKの南側路地を四丁目方面へと進むと、右手にうっかりすると見過ごしてしまいそうな、小さな石のホコラを見つける。

本文中にもあるように、伝説の地は、この石のホコラ一基を残すだけで、あたりの様相を大きく変えてしまっている。石宮だけが、当時の柿の木のあった位置と、当時の親たちの子供への深い愛情の様子を示してくれるだけである。

1997年現在、既にホコラも撤去され、跡形もない。(小川記)
郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
取材 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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