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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 広沢町6丁目 門松の陰から矢を射られて惨死した紀伊守の子孫は 門松なしの正月と言う家訓を残した 障子にまぶしく光る西陽を見やると藤生紀伊守(ふじゅうきいのかみ)は盃を膳 に伏せて、「えらく馳走になった。では、そろそろおいとまを...」 この家の主人がなおも引き留めるのを振り切って、紀伊守は、こう言って席を立 った 。今年は、実に素晴しい正月の朝を迎えた。 それだけに紀伊守は、年始かたがた 訪れた親友宅で思わぬ時を過ごしていた。 正月と言うのんびりした気分に加えて、暫くぶりの訪問だけに積もる話がたくさ んあったからであった。 出された酒肴を前に談笑しているうちに、すがすがしかった朝の太陽も、いつの 間にやら西に傾いて、赤い日差しを友の家の障子の上に投げかけていたのであ る。 「それは残念。まだ話も尽きぬと言うのに。。いずれまたゆるりとお出かけくだ され。」主人も盃の酒を一気に飲み干すと、同様に席を立って、紀伊守を玄関ま で見送った。 親友宅を辞した紀伊守は、西陽のなかをふところ手に、ブラリ、ブラリと家路を たどった。 久しぶりに旧交を温めるうちに、さすがの紀伊守も酒の量が過ぎたと 見え、その足どりにはホロ酔加減を越えた千鳥足が感じられた。 この千鳥足のなかに、紀伊守はすばらしい正月の素晴しい日を得た満足感を、一 人でじっくり味わい続けていたのである。 その紀伊守の酔顔に新春の冷気が、いつまでもここちよさそうにまつわりついて いた。 ブラリ、ブラリのゆっくりした足どりではあったが、それでもどうやら山の端に 残陽があるうちに、紀伊守はわが家の姿が目にうつるところまでやってきた。 ようやくにしてたどりついたわが家の門...ホッと安堵しのだろうか、紀伊守 が一瞬よろめいた。と、その時だった。 「ヒューー」 と言う風を切る羽音をのこして、門松の陰から、一本の矢が、紀伊守目がけて飛 んできたのである。 紀伊守は近隣に聞こえた文武の達人だった。 しかし、今日は正月のこと、それ も、つい先ほどまで親友と盃を酌み交わし、千鳥足になるほど酔い、油断があっ たのだろう。飛んでくる矢をかわすだけの余裕がなかった。そのため、 「アッ!」 とひと声あげただけで、紀伊守は、まともにその矢を受け、地響きを立てて門前 にドッと倒れてしまった。 もの音に驚いた家人が外に飛び出してきたときは、紀伊守はかなりの深傷を負っ て虫の息。すでに刺殺者のすがたはなかった。家人が抱き抱えるようにして、家のなかに運びこんだときには、紀伊守は息を引き取ってしまっていた。 新春を迎え、希望に満ち満ちていた、つい先ほどまでの紀伊守には、予想だにし なかった急変事。家人はただオロオロと取り乱すばかりだった。 「犯人は、以前から紀伊守様を仇敵として付け狙っていた武士。ただ、紀伊守様 はそれを意に介しておられなかった。そればかりに・・・」 と肩を震わす者もあったが、急を聞いて集まった一族の多くは「たとえそうであ ろうと、この門松さえなければ、こうも無念なご最後にはならなかったろうに、 返す返すも残念。」と悔し涙にくれた。 そのやり場のないくやしさが、「このような不吉な門松は、藤生家には不用のも の。以後、一族は門松を立てることまかりならぬ。左様心得よ。」と言う厳しい 家訓を生むことになった。 「桐生は藤生紀伊守のおかげで発展した。合戦は由良に敗れはしたが、かえって 大変に恵まれた」とまで桐生領民に言わしめた程の名城代家老だった紀伊守。 その紀伊守の惨死で生まれた藤生一族の家訓。。 あの日(天正十八年、1590年)から長い歳月が流れ去った。その間、幾多の 歴史の変遷があり、世の中も随分と変貌した。けれど紀伊守の子孫だけは、いつ の世にも変わる事なく先祖の無念を胸にし、現在にいたってもなお門松を飾るこ となく正月を迎え、そして送っている。 これからも、この藤生一族はきっと代々「門松なしの正月」の家訓を子孫に伝 え、それを、固く守り続けていくにちがいない。それが紀伊守の霊を弔う唯一の 「子孫のつとめ」だと信じて・・・ 参考 藤生紀伊守(ふじゅうきいのかみ) 山田郡誌では紀伊守を新田義貞の家臣と述べているが、事実は、天正元年(15 73年)に桐生氏を攻略した「由良成繁公」の家臣である。桐生攻めの時は、先陣の大将として出陣し、物頭十五名の下に、二百五十余人の鉄砲組、弓組の歩卒を従え=中略=小俣川に陣する敵影を認めたので雪崩を打って川越をはじめた。。との記録を残している。 桐生攻略後は、桐生城代として梅田に住み、十八年後、北条氏の滅亡から、由良 氏が常陸の牛久に移されるにあたり、梅田の山地村(現在の梅田町5丁目)に土 着したとも伝えられる。菩堤寺は広沢町三丁目の広沢山・大雄院。 |
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