黒幣の天狗

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桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。


梅田町4丁目

『チリリーン、チリリーン』

さわやかな鈴の音とともに静かな読経の声が、昼食の支度で忙しく働く女中のおよねの耳に伝わってきた。

『あれっ。お坊様がござしゃった。ちょうどご飯もたきあがったところだし、これでも差し上げよう。』およねは、たきたてのご飯を手早くヒゲに盛り、たくわんを添えると玄関へ向かった。

諸国行脚中の僧なのだろう。ほこりにまみれ、赤茶けた衣をまとった見るからにみすぼらしい雲水が、玄関口で読経を続けていた。

『ご苦労様です。何もありませんので、これを一つ…』
と、およねが手にした包みを雲水に差し出した時だった。

『およね。何もやることはないよ。そんな乞食坊主じゃ、ご利益なんかありゃあしない。それより玄関が汚れるから、さっさと追い返しなさい。』

という、おかみさんのキンキン声が奥からとんできた。その声を聞くと、およねは手にした包みをあわてて雲水に渡して、

『おかみさんて、いつもああなんだから気にしないで…。それよりも、これを早くし
まいなされ。』と、口早に伝えた。

『お女中、すまぬな。』
初めて雲水が口をきいた。そして言われるがままに包みをふところにしまうと、

『ところで、お女中の顔はひどいアバタだが、何か悪い病でも患ったのかな。』
と尋ねた。その声は姿には似合わない、すがすがしい響きをもっていた。

『これは、じゃひっつら(ほうそうのあとに残るアバタ顔のことで、桐生市梅田町4丁目皆沢地方の方言)なんですよ。』およねが、ちょっぴり悲しそうに答えると、
『お女中、それでは拙僧と同じ病いじゃったな。』

と言いながら雲水は笠をとって自らの顔を見せた。雲水の顔は、およね以上のひどいアバタづらであった。『お女中のやさしい心根の返礼に、拙僧がお女中の悩みを消して進ぜよう。』

雲水は、ふところから一枚の布を取り出すと、それを手に暫し呪文を唱えた。そして、
『お女中、ようく御覧あれ。』
と、その布で自分の顔をぬぐった。すると不思議にも雲水のアバタがあとかたもなく消えてしまったのである。

『おわかりかな。この布をお女中に進ぜるによって、お女中と同じ悩みをもつ人々共々に、ご利益をお受けなされ。』

あ然としているおよねにその布を手渡すと、雲水はソッと玄関を離れていった。
雲水の残していった布のおかげでおよねも、そして、じゃひっつらに悩む土地の人々のアバタも、きれいに消えたのは言うまでもなかった。

ある日のことだった。およねはおかみさんの居間によばれた。
そして、『おまえは変わった布をもっているそうだね。それをわたしに2ー3日貸しておくれでないかね。』と、大事な布を無理やりに取り上げられてしまった。

ところが、その日から妙なことがおきた。ひまさえあれば勝手元に現われては、口うるさく仕事を言いつけていたおかみさんが、パッタリと姿を見せなくなったのである。
『お大尽のおかみさん。すげえじゃひっつらになっちまったってこったよ。』

こんな話が、およねに聞こえてきたのはそれからまもなくのことだった。それと同時に、
『弘法大師という偉いお坊様が諸国行脚の途中、皆沢へも立ち寄られたそうな。』
という話も、およねに伝えられた。

『では、あの時のお坊様が弘法大師様では…』

伝えを耳にしたおよねは、すぐさま姿こそみすぼらしかったが、どこか気品の感じられたあの日の雲水を思い浮かべた。そして、あの雲水が去っていった方角に向けてひざまずいたおよねは、両の手を合わせると、
『弘法様、おかげ様でみんなが救われました。ほんとうにありがとうございました。』
と深い感謝の念をこめてつぶやいたのである。


参考
皆沢地区

梅田湖の梅田大橋を渡り、道なりにおよそ4キロほど進むと、一つの集落が見られる。そこが町村合併によって梅田町4丁目となった『旧皆沢区』である。栃木・群馬両県境に位置し、かっては陸の孤島と称されていた地区だったが、桐生市編入後、道路をはじめ、諸々の点で整備がされて、今は、その不便さはない。

この地区には旧村社・忠綱明神(八幡様)が祀られ、これにまつわって、白犬や山鳥を飼わないといった風習があり、五月人形の白馬さえもブチにしてしまうといわれる。戸数はわずかだが、大珠数廻しの奇習をはじめこの地区には旧村社・忠綱明神(八幡様)が祀られ、これにまつわって、白犬や山鳥を飼わないといった風習があり、五月人形の白馬さえもブチにしてしまうといわれる。戸数はわずかだが、大珠数廻しの奇習をはじめ、伝説・伝承の多いところである。
郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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