黒幣の天狗

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桐生から古く伝えられている民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........

東5丁目
心臓発作で悶絶し、夢の中でさまよい歩くうち、観世音菩薩の功力で蘇生

桐生市東5丁目・・・。ここは、かつては「今泉」の地名を持っていたところで、一帯は桐生領主・重綱公(永正十三年=1516年=十月没)が好んで鷹狩りを催した荒戸野原の一部である。
この今泉の地名も、重綱公が鷹狩りのおり、喉の渇きを覚え、土地の名家.岩崎大六宅に立ちより、茶を所望したところ、大六の娘が湧き出る清水を汲んで茶を立てて差し上げた。その茶があまりにも美味であったことから、重綱公が大よろこびされ命名したと言う言い伝えを残している。

さてこの旧今泉に「岩崎観音堂」と呼ばれる小堂がある。文字通り土地の旧家・岩崎一族の守り本尊である。岩崎観音堂の建立は文化七年(1810年)今から百八十七年前と伝えられる。水戸家は大日本史を献上した年である。

病気治癒と商売繁盛、そして家内安全に利益がある「岩崎観音堂」建立のいわれ・・それは次ぎのようである。

岩崎家の先祖に長坂能恭(ながさかよしやす)と言う武士がいた。能恭は、岩崎家から長坂家に養子に行き、浅野家江戸屋敷に仕官した人物との記録がある。
この能恭が文化七年の初春から働気の病(どうき=心臓病の一種)で健康がすぐれず、医者や薬の世話になっていたが、どうもはかばかしくなかった。
しかも、二月十一日の夜には、病が俄に悪化して、突然に能恭が悶絶してしまったのである。

家族は大変に驚き、急遽、医師を呼び寄せ、針、灸治療をおびただしく行ったが、能恭は一向に気がつかず、ついには、親類や朋友までも集められる状態となり、家の中は上を下への大騒ぎとなった。

この大騒ぎの最中、当の能恭は、気絶したまま実に不思議な夢を見ていたのである。そのころ能恭は、どこの国かは定かでないが、とにかく広く大きい野原をさまよっていた。四方を眺めると、青葉の木々には雪が積もっている。その大原の中ほどに大門が見え、そこに至るまでは、大原と同じ草木が数知れず両側に立ち並んでいた。
その大門への道を歩むと、足の下から何とも言えないぬくもりが伝わって来るのである。あたりは能恭ただ一人。鳥も獣も見当たらない。
やっと大門にたどり着くと、そのはるか遠くに黒い影があり、後光を放っている。近づくと、それ観世音菩薩の尊像であった。能恭がその像を臥し拝むと・・・目に動転する医師、家族、朋友の顔が飛び込んでこたのである。


能恭と養父母が、日頃から浅草観世音を信拝してきた功徳で、この九死に一生を与えられたのであろうと、能恭は病気が平癒すると、夢の中に現われた聖観世音菩薩の立像を造立して「延命観世音菩薩」と奉称した。
しかも、堂宇まで建立して、観音像を今泉の地に安置したのである。

岩崎観音堂は、今日も静かに旧今泉村の人たちの守護の仏として、また、岩崎一族の安泰の証しとして、むかしと変わらない恵みの陽光のなかにある。
しかし、この、縁起と、長坂能恭五十九歳の発願によって再建された堂宇であることを知る人は、今は少なくなっている。

郷土史研究家 清水義男氏著「黒幣の天狗」より抜粋
写真撮影 小川広夫  ホームページ作成 斉藤茂子

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