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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 居舘の大力女 梅田一丁目 [もどる] 桐生城跡のそびえる村、梅田の里・居館に、進藤姓の某女が住んでいた。 こうして平凡な女性として成長した彼女は、年ごろになると縁あって隣の飛駒村(現在の栃木県安蘇郡田沼町飛駒)の農家へ嫁いだ。 ところが、このまめまめしさとご主人思いが、ふとしたことを機に、ひたかくしてしていた大力をさらけだす羽目になった。 翌日から早速、家族総出の作業がはじめられた。が、竹薮のあとは無数の地下茎がビッシリと張っていて、家族がいくら精を出しても作業は一向に進まず、ご主人はヤキモキする様が目立つばかりだった。 彼女は、ご主人の苦悩する姿を見て、いても立ってもいられなくなり、 「私の大力を活かすのは、こういう時をおいてはない。」と、これまでかくして来た大力活用を心にきめた。 もともと心やさしい女房だったので、こう決心すると足元にクワを置き、最も太そうな地下茎に手をかけた。そしてまわりの地下茎もろとも、まるでジュウタンをめくるかのように、バリッ、バリッと一気に引き抜いてしまった。 ご主人たちは、あまりのできごとに汗を拭くのも忘れ、ただ唖然としていた。 彼女は、恐怖さえおぼえて立ちつくすご主人の姿を「喜びのあまりの姿」と勝手に解釈して満足した。この彼女の満足感が、後日再び大力発揮となり、家族の恐怖心を高めてしまうのである。 野良仕事を早めに切り上げたご主人が、のんびりと露天風呂につかっている時のことだった。突然雷鳴を伴った篠つく大雨があたりを襲った。大の雷嫌いのご主人が、風呂のなかで、うろたえる様子を見た彼女は、家から裸足で飛び出すと、ご主人の入ったままの風呂をグイッと抱え上げ、家のなかに運びこんでしまったのである。 この二つの事はどちらもご主人のためを思ってやった事だった。しかし、この事以来、家族は手の平をかえしたように彼女に冷たくあたるようになり、日ならずして「離縁」と言う最悪の事態を生んでしまった。 再び梅田の里に戻った彼女の嘆きは、ハタ目にもあわれだった。 「家内安全、商売繁盛」などの、里人の諸々の願いが込められた大きな石宮が完成した。 そこへ彼女が通りかかったのである。里人が困り果てているのを見かけると、彼女はだまって石宮に近づきグイッとかかえ上げて背に負い、里人があれよあれよと言う間に。一気に前城へかつぎ上げてしまった。 彼女の生家・進藤家は、代々女だけしか生まれないと言う珍しい家系だった。 おまけに時々彼女のような大力女が誕生していた。でも「男の子が生まれれば大力は消滅する」と言う伝えがあり、それが唯一の救いとなっていた。 彼女の大力は、やがて消えた。ほどなくして待望の弟が生まれたからであった。 前城に今なお安置される石宮には、応永2年(1395年)と言う造立年が刻まれている。進藤某女にまつわる、この大力女伝説は、そのころ生まれたのかもしれない。 参考 居館(いだて) 戦国時代の武士は、普段は城下で農作業をしており、いざ、合戦となると、武具を身につけ、城に駆けつけたという。この居館は、桐生家の家臣たちが、その日常の生活を送っていた屋敷のあったところである。ここには旧小字で「御屋敷」という地名も残っている。 石し(石のほこら) 梅田町1丁目のもと鎮守・日枝神社本殿うらから、桐生城跡本丸に向かう途中の城山中腹が「前城」と称されるところである。この伝説中にある石宮は東北向きに建ち、次ぎの銘を残す。 奉造立○殿大権現石社 天下泰平○○安○ 請願成就 応永二年○五月十五日 居館村惣氏子敬白(○印は不明箇所) 応永2年(1395年)に建立された石宮の高さは45センチの基盤上に建ち地上2メートル20センチにも達する。 ○日枝神社から城山登山となるが、およそ15分を要する。 copyright (C) 1997 KAIC & H.Ogawa & K.Yoshida |
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