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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 新宿2丁目 新宿地区の氏子の禁忌「池をつくらない」と言ういわれ。。。 桐生市新宿二丁目に、元亀年中(1570ー1572年)創立と伝えられる八幡 宮(祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)・応神天皇とその母の二柱)が鎮座 している。 文政六年(1823年)の新宿大火で社殿と古文書を焼失しその歩は知る由もな いが、焼失直後に社殿が再建されるという、深い信仰心にうらうちされた神社なの である。この八幡宮には変わった伝承があり、今も地元民によって、固く守り続け られている。 かつては、この八幡宮境内には、大きな美しい池と水神宮とが見れれたと記録さ れている。けれど、今はそのどちらも名残さえとどめてはいない。 そればかりではない。不思議なことに、町内どこにも池の姿はないのである、実 はこのことに八幡宮の伝承がかかわっているのだ。 「この町内には、池つくり禁忌伝説があり、人々がそれを守っているからさ。」 と土地の古老は、こともなげに言う。なぜ、池を作ってはいけないのか? それ はかつてあったこんな事件に起因する。 むかしのこと、何のまえぶれもなく応神天皇が放光村(新宿の旧名)をおとずれ られた。わずかのお供を連れただけという、乗馬姿のお忍びで・・・ 天皇は、かなりの遠乗りをされておいでのご様子で、静かな日とはいえ、すでに 晩秋というのに、うっすらと額に汗を光らせておられた。 それだけに、放光村へ入ってすぐに目についた大きな池に、天皇はホッとした表 情をうかべられると、そのほとりへと愛馬を進ませた。 池の表を渡ってくる微風が、汗ばんだ肌に心地よかったのかも知れない。ほどよ く色づいた木立や山々も、しばしの休息を楽しまれる天皇の心をなごませてくれ た。 天皇がそんな美景に見ほれていた時だった。静かな日には、まったく思いもよら ない一陣の突風が巻き起こり、砂塵を舞い上げて天皇を襲ったのである。 あまりにも快い日、あまりにも美しい景色ーー、流石の武人天皇にもスキが生じ ていたのかも知れない。 黄色い砂ほこりとなって襲った突風が、天皇の前垂れを吹き上げ、お顔を覆う と、一瞬たじろがれた。 そのはずみで手綱さばきをあやまられ、愛馬もろともドウッと池中に落ち込まれ た。幸い、天皇はどこにもおケガはなかった。しかし、愛馬は前の足を骨折して 、二度と天皇を背にすることができなくなってしまったのである。 はるかに遠いむかし、この地でこんな事件があったという。 後の世となり、里人は応神天皇の霊(みたま)をむかえ、村の総鎮守・八幡宮を 創建した。ところが、信奉とはうらはらに池を作ると病人やケガ人が出るという いまわしい事が持ち上がるようになったのである。八幡宮境内だけでなく、 村のどこにつくっても、そうだったので、里人は、 「八幡さまは、まだ、むかしのできごとがお忘れになれないのだろう」と、この 現象を、そう解釈して、境内はもちろん、氏子の家々の池を残らず埋め立ててし まった。そして、「今後は氏子は池をつくることを禁忌とする」とし、あわせて 前垂れに似たオカケも使わないことを申し合わせた。 時の流れは、やがてこの申し合わせを新宿全域の禁忌と風習にまでひろげて、今 日に至った。しかも、科学万能の世になっても、このことは固く守り続けられているのである。 他市から転居してきた池好きのKさんが、禁忌を知らずに池をつくり失敗した事 実があるからばかりではない。これは先祖の伝えを守り続ける里人の奥ゆかしさ と言えよう。 この八幡宮は、かつては壮大な森林に囲まれた神殿であった。規模こそ小さいが すぐれた技法を残す総彫りの神殿に、往時の面影が偲ばれる。 さらに境内には、信州・高遠の石工の作、石灯篭、卍紋入りの珍しい庚申燈篭、 貴重な庚申阿弥陀石仏といった石造文化財も多く、名ある神社の風格を演出している。 この多くの文化財と共に、応神天皇にまつわる伝承が、ここには今日なお脈々と 息づいているのである。 新宿・・今なお池はつくれない。オカケは使えない土地なのである。 参考 八幡さま(はちまんさま) 新宿二丁目 新宿が開拓された元亀年間(1570ー1572年)に元宿からこの地に移され たと伝えられるが、文政六年(1823年)の新宿大火で社殿や文献ともに焼失し、詳細は不明。 祭神はホッタワケノミコト(応神天皇)とオキナガタロウヒメノミコト(応神天 皇の母)で応神天皇を彫り出した本殿の彫刻のすばらしさは有名。 応神天皇の立 像が残されると述べる資料があるが、こちらのほうは、確認されていない。境内 には「山路きてなにやら床し寸ミれ草」 と刻まれた芭蕉句碑がたつ。 |
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