黒幣の天狗

桐生から古く伝えられる 民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........


旗竹のやぶ
梅田町一丁目
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関ヶ原合戦のために注文があった、二千四百匹の御旗絹が織り上がり、
徳川方に納められる時に太郎兵衛さんは、自宅の竹薮からたくさんの竹を切だし、
勝運を招く旗竹として添えていた。


 徳川方と豊臣方との対立が、ますます激しさを増し、どことなく世の中が騒然となってきたころのこと、桐生新町のあちこちにこんな話しが伝えられた。

 「徳川様から、この桐生に御旗絹のご注文があったそうな」
 「野州(栃木県)小山の平岩様からのお使いがおいでになられて、旗絹二千四百匹も注文なされたとかで、町中の機屋がてんてこ舞いだってことだ」
 「まさか、また合戦になるんじゃぁあるめえな」
 「なんとも言えん、内府様(家康)と三成様との間は、もう救いようがないとの噂だ。そこへもってきて、今度の大量の旗絹の注文ーこれはヒョットすると・・・」

 こんな巷の噂が流れた慶長五年(1600年)も九月の声を聞くと、それが単なる噂でないことがわかって来た。

「徳川方十万の大軍と、石田方七万五千の軍勢が美濃(岐阜)の関ヶ原で対決」
と言う大きなニュースが桐生新町に届けられたからである。
 「やっぱりな」
 人々は噂が事実になったことに驚き、互いに目を見合わせた。

 そこへ「徳川方大勝利。豊臣氏滅亡」の報が、第一報のすぐ後を追うようにして伝わってきた。
 この第二報を誰よりも喜んで聞き、天にも昇る心地になった人物があった。
 上久方村(梅田町1丁目)居館に住む進藤太郎兵衛さんである。

 注文の二千四百匹の御旗絹が織り上がり、徳川方に納められる時に太郎兵衛さんは、自宅の竹薮からたくさんの竹を切だし、旗竹として添えていたのだった。徳川・豊臣両軍の衝突の報を聞いた太郎兵衛さんは、

「この合戦は、内府様が勝つにちがいない。わしのとこのこの竹は勝運を招く旗竹じゃ。必ず勝利を導いてくれる。」と、そう、われとわが心に言い聞かせていたのである。

 しかし、そうは言っても心配がないわけではなかった。「合戦」の知らせが届いた時から仕事もろくに手がつかず、落ち着けない時を過ごしていたのである。だから、「徳川方の大勝利」の第二報には、いっとき太郎兵衛さんは全身の力が急に抜けたーそんな心地さえしたのだった。

 でも続いてこみあげてきた嬉しさは格別で、言葉では言い表すことのできないほどのすばらしいものだった。大声をだして叫んで飛び上がっても、まだ身のおきどころがないほどの大きな大きな喜びだった。

 この興奮のさめやらない太郎兵衛さんのもとへ、さらに吉報の追い討ちがあった。「進藤家の家屋敷、田畑を免租地とする」と言う、徳川家からのお達しである。
 「ありがとうございます。内府様」
 太郎兵衛さんは、重なる喜びをジーっとかみしめながら、旗竹を切り出した竹やぶをソッと見やるのだった。

 関ヶ原の合戦にまつわる、この進藤家の旗竹伝説=じつはこれと大同小異の伝えが、市内広沢町五丁目・彦部家にも残されている。
 郷土史家の間には「関ヶ原は竹の名産地。そこへ桐生くんだりから重い思いをして、わざわざ竹を運びこむなんて考えられない」と言う声がないわけではない。
 しかし、この両家に伝えられる「旗竹のやぶ」伝説のおかげで関ヶ原の合戦と言う歴史的な大事件が、桐生市民にとってグンと身近なものとなっていることは、文字通り「事実」なのである。


参考

旗竹のやぶ(はただけのやぶ)
梅田町一丁目居館字御屋敷の進藤氏宅入り口に現存し、そのやぶには、この由来を伝える石碑が建てられている。(日枝神社から三百メートル小谷戸より)

碑文

山田郡上久方村居館字御屋敷
 屋敷弐畝六歩 御除地 百姓 太郎兵衛(進藤又十郎祖)
 同 弐畝歩 見捨御除地
 同 壱畝十八歩 伴右衛門
 七年ニ一度御料所ニ端銭相勤申候

この文は、文献(桐生織物史・上巻)にもあるが、識者間では疑問視し、あくまで伝説の域を出ないとされている。

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