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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 旗竹のやぶ 梅田町一丁目 [もどる] 徳川方に納められる時に太郎兵衛さんは、自宅の竹薮からたくさんの竹を切だし、 勝運を招く旗竹として添えていた。 徳川方と豊臣方との対立が、ますます激しさを増し、どことなく世の中が騒然となってきたころのこと、桐生新町のあちこちにこんな話しが伝えられた。 「徳川様から、この桐生に御旗絹のご注文があったそうな」 「徳川方十万の大軍と、石田方七万五千の軍勢が美濃(岐阜)の関ヶ原で対決」 注文の二千四百匹の御旗絹が織り上がり、徳川方に納められる時に太郎兵衛さんは、自宅の竹薮からたくさんの竹を切だし、旗竹として添えていたのだった。徳川・豊臣両軍の衝突の報を聞いた太郎兵衛さんは、 「この合戦は、内府様が勝つにちがいない。わしのとこのこの竹は勝運を招く旗竹じゃ。必ず勝利を導いてくれる。」と、そう、われとわが心に言い聞かせていたのである。 しかし、そうは言っても心配がないわけではなかった。「合戦」の知らせが届いた時から仕事もろくに手がつかず、落ち着けない時を過ごしていたのである。だから、「徳川方の大勝利」の第二報には、いっとき太郎兵衛さんは全身の力が急に抜けたーそんな心地さえしたのだった。 でも続いてこみあげてきた嬉しさは格別で、言葉では言い表すことのできないほどのすばらしいものだった。大声をだして叫んで飛び上がっても、まだ身のおきどころがないほどの大きな大きな喜びだった。 この興奮のさめやらない太郎兵衛さんのもとへ、さらに吉報の追い討ちがあった。「進藤家の家屋敷、田畑を免租地とする」と言う、徳川家からのお達しである。 関ヶ原の合戦にまつわる、この進藤家の旗竹伝説=じつはこれと大同小異の伝えが、市内広沢町五丁目・彦部家にも残されている。 参考 旗竹のやぶ(はただけのやぶ) 碑文 山田郡上久方村居館字御屋敷 この文は、文献(桐生織物史・上巻)にもあるが、識者間では疑問視し、あくまで伝説の域を出ないとされている。 copyright (C) 1997 KAIC & H.Ogawa & K.Yoshida |
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