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シリーズでご紹介いたします。 新宿三丁目 桑誉了的上人(そうよりょうてきしょうにん)が開山となって寛永2年(1625年)に創建された葦堤山致請院定善寺(いだいさんちしょういんじょうぜんじ)(浄土宗)は通称「呑竜さま」で知られる。この呑竜さまには、大切な寺宝が三つあった。 一つは伝良心作の本尊・阿弥陀如来像、二つ目は呑竜さまと呼ばれるもととなった大光院・呑竜上人の分身(位牌)、そして三つ目は金で織られた袈裟だった。 ことに三つ目の金の袈裟は、開山・了的上人が、まだ芝の増上寺におられた頃、朝廷から拝領したと言われる由緒ある品だったので、特に重要な寺宝とされた。 勿論、朝廷から名指しで了的上人に金の袈裟が下賜された訳ではない。支那(現在の中国)の皇帝から時の朝廷に献上され、朝廷から増上寺に下賜され、それが了的上人にわたされると言う経緯があったのである。 時が流れ世相も変わった。すると、こんな噂が桐生の町にまで伝わってきて、人を驚かせた。「桐生では、純金の織物ができるそうだ」。。と〜〜 噂を耳にしたとき、新宿村の人たちは一様に首をかしげた。機織り場の新宿村の人達でさえ、桐生で純金の織物などが出来るとは聞いていなかったからだ。 それなのに遠い江戸では「桐生産純金織物」の噂がひろまっている〜〜不思議と言わざるをえないのだ。 新宿村の人達は、その原因を尋ねて八方手をつくした。中にはわざわざ江戸まで出かけて、噂の真偽を確かめようとした人さえあった。その結果噂は単なるでまかせではなくて、たしかに桐生織物だとして、一寸四方(約10平方センチ)の金の布が、問屋に持ち込まれていた事がわかった。 調査のあらましが地元に伝えられると、新宿村の人たち、わけても呑竜様の檀家の人達は一瞬顔をくもらせた。 「何時の夜だったか、袈裟のある部屋へ忍び込む人かげを見た。その姿が檀家総代にあまりにもよく似ていた。」との囁きが、それとなく流れていたからだ。 経緯はどうあれ、了的上人は、感激して袈裟を押しいただいた。そして年老いて新宿村(桐生市新宿)に隠居寺、定善寺を建てて増上寺を去ると、その金の袈裟を寺宝として定め封印してしまった。 しかも、檀家総代はおろか、定善寺住職たりとも勝手に封印を破る事を禁じ、永久保存としたのである。 さっそく寺宝の収められてある場所が調べあげられた。しかし 「何だか新しいな」そんな感じがしないでもないが、とにかく封印はしっかりとされてあり、破った形跡はなかった。 そこで、表向きは「江戸の噂は、単なる世間騒がせ」と言う事で処理された。とは言っても良識ある人々の間ではその後も、「由緒ある上人の遺産も、とうとうキズものになってしまったか、上人も地下でさぞ落胆されている事だろう」と言う言葉と共に、総代非難の声が根強く残された。 ただ、住職さえも見る事が出来ない寺宝であり、不審はあっても封印がキチンとされてあるので、表沙汰にはできなかった。 人々の不審感がとけないままに世は嘉永2年(1849年)を迎えた。その年。江原某宅から失火があり折りからの強風にあおられて、あたり一帯が火の海と化してしまった。世に名高い新宿の大火である。 この大火により、かろうじて本尊を運び出したものの、定善寺は全勝の憂き目にあっている。そして、問題の金の袈裟は行方不明となってしまった。おそらく火災で焼失してしまったにちがいなかった。 こうなっては、あの「檀家総代云々」の風聞も、災害から立ち上がろうとする村人たちには、全く関係のないものになってしまった。同時に寺宝の所在がわからなくなっては調査の術もないまま、時の流れとともに話題にさえものぼらなくなって行った。 現在の呑竜様の縁日の人出はすごく、桐生市の縁日の中でも五指に入るほどの盛大さと賑わいを見せる。しかしここを訪れる大勢の善男善女の口からは、残念ながら江戸時代の「寺宝の袈裟にまつわる金の織物騒ぎ」の話は全く聞かれない。桐生産純金織物事件は袈裟同様に、すでに歴史の彼方で消滅してしまったのかもしれない。 参考 呑竜様(どんりゅうさま) 定善寺の別称である呑竜様は、明治二十五年八月八日から同寺で呑竜上人をまつるようになったからで、今でも本堂に呑竜上人の像と位牌が安置されている。 境内に大関・秀の山の墓があるところから、かつては、この寺に訪れる力士も多くあり、大江淳弘住職のころは全国腕角力大会の会場として知られた。 俳人・横山菊涯・岸豊湖・横山見左の碑、儒者・鳳岡堂如淵、木三堂笠野の碑、桐生織物の大恩人・笠原吉郎の碑など、文化人の碑も林立している。 |
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