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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 梅田町5丁目 天明の大飢饉が暴動を引き起こし、 それに加わった領民は処刑された、 残された家族の悲惨な最後 緑の山あいを縫うかのように北へ北へと伸びる、県道・上藤生線の景色を愛でな がら上りつめると、梅田町4丁目のはずれで、突如、巨大なダム堤が姿を見せ る。 総事業費二百二十七億六千万円の巨費と、五カ年の歳月とを費やしてこのほど完 成した「桐生川ダム(梅田湖)」の雄姿である。 この巨大なダムの北側に、人の目に触れることもなく水音を響かせる一つの小爆 布があった。滝の形が大根おろしに似ているからとか、檀家激減で寺が成り立た なくなった大涌寺(だいこじ)住職が、過去帳を背に滝つぼに身を投じたとか で、地元民から「だいころしの滝」と名付けられている小滝である。 この滝には、実は、次ぎのような悲しい伝えが秘められているのである。 その秘 話とは・・・ 天明三年(1783年)の浅間山大噴火で端を発した大飢饉は、桐生領民からも 日々の生活の術を奪い去り、人々をどん底の窮乏生活に追いやった。 そして四年後ーーその長い苦しみの生活に耐えられなくなった領民の一部が、遂 に暴動へと走るのである。 「山地・彦間・大州・猿石・浅部の百姓たち三・四百人が徒党を組んで桐生新町 に乱入し、穀商・菊屋、酒商・近江屋等から金品を強奪。 さらに乱暴狼藉に及ば んとしたため、町役人が出張って暴動を鎮圧し、多数を処刑」と言う、世に言わ れる「天明七年(桐生打ち壊し騒動)」がそれである。 苦しみぬいた末の挙であるだけに、男衆は死を覚悟しての行動であったに違いな い。しかし一家の柱を処刑で失った家々の生活は、なお一層苦しさを増して、生 きる望みさえもなくしてしまったのである。 ある日のこと、とっておきの晴れ着を子供たちに着せ、なけなしの食べ物で最後 の食事をとると「おっかあと一緒におとうの所へ行こう。」と涙で頬をぬらした 母親が、いやがる子供の手をとってだいころしの滝の轟音のなかに身をひるがえ すと言う事件が起きた。 そして、それを機に何組もの親子が自らの生命を断っていったのである。 まさに 飢饉がもたらした悲劇であった。 桐生川ダムは現在の貯水量千三百万トンの人造湖を出現させ、この秘話を伝える だいころしの滝は湖底に没し、再び人々の目に触れることはない。 桐生市史をひもとくと、桐生打壊騒動の記録は鮮やかで、当時の人々の必死の様子を伝えている。 しかし、事件後の家族の苦悩は一行も記述されていない。その ため、だいころしの滝に伝わる秘話は史実か民話か全く定かでない。でもそれに 近い出来事があったろうことは想像に難くない。それだけに、だいころしの滝の 水没とともに「天明の秘話」も消滅と言うような事態だけは、ぜひ避けてほしい ものである。開発の陰に消えていった「だいころし」という変わった名の小滝の あったこと、それにまつわる悲しい伝説のあったことを折りにふれては語り合 い、より鮮明にしていってほしいもの、そう願わずにはいられない。 参考 だいころしの滝 桐生川ダム(梅田湖)の完成により、その湖中に没した「だいころしの滝」は、 冬の渇水期以外には私たちの目に触れることはない。かつては根本神社里宮・大 正院の少し先に存在し、小さいながら風格のある滝であった。周囲を樹木で覆わ れ、日の光りも届かず、ウッソウとしていて不気味でさえあった。 大涌寺(だいごじ) 現在は寺跡さえもないが、実在していたことは山田郡史が、次ぎの一文で証明し ている。 その寺は、日々に檀家が減じて、遂に立ち行く事能わざるに至り、大涌寺の僧は 過去帳を背負い山地にある滝に沈み、寺もそれが最後となりたり。 |
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