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桐生から古く伝えられる 民話を、 分身本物説 (新宿三丁目) [もどる] どちらが本物でもよいではないか。 新宿通りを境野町方面へと歩むと、やがて左手に「呑竜様」の愛称で市民に親しまれる名刹が姿を見せる。葦提山致請院定善寺(いだいさん、ちしょういん、じょうぜんじ)(浄土宗・本尊は阿弥陀如来)である。 定善寺は、?、三縁山増上寺(しば、さんえんざん、ぞうじょうじ)二十二世・ 桑誉了的上人(そうよりょうてきしょうにん)が、寛永二年(1625年)に創 建した隠居寺であるが、江戸から離れた地をわざわざ選んだのは、兄弟弟子・呑竜上人の勧めと、新宿の旧村名「放光村」に心をひかれたからだと言われている。 ところで、市民の多くは、定善寺を知らなくても呑竜様は知っている。市内屈指 の賑わいを見せる縁日のせいもあるが、なによりも「定善寺にまつられる呑竜様 の分身(位牌)は本物」であるという伝承を耳にしているからである。 大田・大光院の呑竜上人の位牌は偽物だと言うのだから、大田の市民が聞いたら目をむくに違いない。その伝承の詮索はさておいて、伝承の生まれた糸をたぐって見るとこうである。 了的・呑竜両上人は、増上寺では有名な仲の良い兄弟弟子であった。この仲のよさは、桐生と大田の地へと離ればなれになっても、一向変わることはなかった。 この両上人の生き方は、両上人が世を去っても、お寺同士のおつきあいとなって続き、桐生=大田間の往来を盛んにさせた。 時代が変わり、江戸が東京と改められた。 そして維新の世もやがて明治の25年 = この年、定善寺では、度々壇家役員の会合が重ねられていた。前住職亡きあとの後継住職探しの会合であった。 寺格の高い定善寺だけに、住職はだれでも良いと言うわけにはいかない。そのため帯に短しタスキに長しで、適当な後継?がなかなか見つからなかった。 ましてや、この頃の定善寺の台所は火の車で、養蚕やお茶の栽培にまでも手を出すほどの貧乏寺だったから、なおの事寺格が高いと言うだけでは、好んで住職になろうと言う僧侶もいない。 このため、壇家役員の会合は、何度開かれても解決のきざしさえみられなかった。 そこで、ついには「大光院にに相談を・・・」と言う声が大勢を占めた。 旧知の間柄に甘えようと言う窮余の一策だったのである。 話しを持ち込まれた大光院にも名案はなかった。しかし、定善寺からの申し出とあっては、無下には断われなかった。 思案の末に開山別当(会計責任?)の本田 俊宏師に桐生行きの白羽の矢が立てられた。 指名された本田師は驚いた。貧乏寺住職の席が自分に向けられようとは、夢にも思っていなかったからだ。だからと言ってこのことは簡単に断われるような生易しいものではない。 本田師は桐生行きの腹を決めると、 「桐生へ移る条件として、呑竜上人の分身を申し受けたい」と言いだし、わがままを押し通してしまったのである。 本田師が呑竜上人の分身を護持して定善寺に入ると、まもなく吉兆が顕われた。 あれほどにさびれていた寺が、徐々に持ち直し、日ならずして、以前にも増して隆盛を極めるようになったのである。 これをきっかけに、あちこちで呑竜上人をまつる寺々が続出したのはいうまでもないことだった。 ところで、分身本物説の真偽のほどは興味津々だが、「このままソッとしておいて、伝承の楽しさや夢を追うほうが得策」と言う桐生市民は多い。 この市民の気 配りに支えられ、毎月八日の定善寺縁日は「呑竜様縁日」と称されて、今後益々 市民に愛され、人出を招くに違いない。今日の賑わいが、その前兆でもある。 参考 定善寺(じょうぜんじ) 新宿にあった浄運寺が、新町の町造りで本町へ移転したあとの多くの壇家が、こ この稿おわり [もどる] copyright (C) 1997 KAIC & K.Yoshida |
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