黒幣の天狗

桐生から古く伝えられる 民話を、
シリーズでご紹介いたします。
お楽しみに........
馬頭塔と相馬三郎
梅田町一丁目
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世に言う「由比正雪の乱」の首謀者の一人が梅田の里に隠れ住んだ


 世に言う「由比正雪の乱」の首謀者の一人、熊谷三郎兵衛がはるばる京から逃れてきて梅田の里で天寿を全うしたという伝えが、桐生に残されている。

 熊谷は京に走り、由比正雪、丸橋忠弥らの江戸城突入に呼応して、二条城を占拠するという大役を担っていた一方の旗頭であった。その熊谷がどうして梅田に?と言う詮索はさておき、その生活ぶりはどんなだったのだろうか。

 江戸での騒ぎもだいぶ落ち着いた頃だったろうか。居館の、ゆう雲寺(臨済宗建長寺派、1305年開創)に相馬三郎と名乗る浪人は住みついた。

 日がたつにつれ、村人たちと顔見知りになった三郎は、乞われるままに村人やその子弟に書道、柔術の指南をするようになった。熱心に指南をする三郎はたちまちのうちに「立派なお師匠さん」と村人たちにあがめられるようになった。
 
 このような村人たちの暖かいまなざしの中で、日々安穏な生活をおくる三郎だったが、ある日から合間を見てはひとりコツコツと石を刻むとこが多くなった。

「先生いったい何が出来るんですかい」
と、いくら村人が尋ねても、三郎はただ、微笑みを返すだけで、黙々と槌をふるい続けた。

 長い年月が過ぎ、ようやく一基の石造物が完成した。それは五尺(165センチ)をこえる丸い柱の上に、馬の首を四個つけた馬頭観音塔であった。三郎は、完成した馬頭塔を前に村人たちに向かって、

「人間、所詮は生身のからだ、いつどのようなことでこの世を去るやも知れぬ。
 私に万一のことがあったら、この馬頭塔を、ぜひ私の墓石にしてほしい。頼みましたぞ」
と言い渡した。

 村人たちはそれを受けながらも、
 「先生そのお元気さなら、百歳までは大丈夫ですよ。墓石だなんてお気の早い・・・」
と顔を見合わせ笑い合った。村人たちの笑いに、三郎もつい引き込まれて、ともに笑い合った。

 だが、その笑いの陰に、
 「わしは天下の大罪人、いつ役人の手に捕えられるかも知れない。せめて生あるうちに自分の墓を・・・」
と言う日常の穏やかさの裏に、罪の意識にさいなまれ続ける三郎の姿がかいま見られた。

 村人たちの言うとおり、その後も三郎の身辺には何も起きなかった。そして天寿を全うして三郎は世を去った。
村人は三郎の遺言通りに裏山に馬頭塔を建て、学問の神「相馬神」としてまつった。

 三郎の死後かなりたってからのこと、
 「相馬三郎とは、天下の大罪人、熊谷三郎兵衛の世を忍ぶ仮の名であった。」
と言う話しが伝えられ、村人たちをガクゼンとさせた。

 しかし村人たちは、
 「たとえ、それが真実であっても、相馬さまへの感謝の気持ちは変わらない」と
毎年四月二十一日を相馬神祭礼日と定めて、以後300年近くも盛大な祭典を重ねてきた。

 第二次世界大戦の食料難で祭りが途絶え、現在にいたっているが、最近近くの人々の間から
「このままでは相馬様にもご先祖さまにも申し訳ない。豊かな時代になっているんだから、なんとか祭りを復活させたいものだ。」
との声があがっている。
 このぶんならば「相馬さまの祭りが復活」といった見出しが、紙面を飾る日も近いようである。


参考

熊谷三郎兵衛(くまがいさぶろべえ)

慶安事件(由比正雪の乱、慶安四年=1651)の際、丸橋忠弥とともに首謀者の一人となった。
渡良瀬沿岸地方史跡にも「熊谷は加藤市右衛門とともに選抜せられて、京都方面の首領たりしが事の成らざるを知り、京都より脱走して、上久方村(現在の梅田町一丁目)ゆう雲寺に来たり、姓名を変え云々」との文が見られる。

ゆう雲寺(ゆううんじ)

梅田町一丁目居館にあって、山号は梅松山、建長寺派小本寺で、嘉元三年(1305年)八月に梅園義有が創立。慶安二年(1649年)に将軍家綱から五石七斗の下賜があったが、維新のおり上知している。

象形の歓喜天が有名。
西方寺を日枝神社との間に位置し、やや日枝神社よりにある。県道の西側にある旧道に面している。
馬頭塔は日枝神社の南の藤生さん宅前から山際にそって50メートルほど進み、そこから更に右手山腹を登ると、石のほこらと共に安置されているのが見られる。

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