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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 馬頭塔と相馬三郎 梅田町一丁目 [もどる] 世に言う「由比正雪の乱」の首謀者の一人、熊谷三郎兵衛がはるばる京から逃れてきて梅田の里で天寿を全うしたという伝えが、桐生に残されている。 熊谷は京に走り、由比正雪、丸橋忠弥らの江戸城突入に呼応して、二条城を占拠するという大役を担っていた一方の旗頭であった。その熊谷がどうして梅田に?と言う詮索はさておき、その生活ぶりはどんなだったのだろうか。 江戸での騒ぎもだいぶ落ち着いた頃だったろうか。居館の、ゆう雲寺(臨済宗建長寺派、1305年開創)に相馬三郎と名乗る浪人は住みついた。 日がたつにつれ、村人たちと顔見知りになった三郎は、乞われるままに村人やその子弟に書道、柔術の指南をするようになった。熱心に指南をする三郎はたちまちのうちに「立派なお師匠さん」と村人たちにあがめられるようになった。 「先生いったい何が出来るんですかい」 長い年月が過ぎ、ようやく一基の石造物が完成した。それは五尺(165センチ)をこえる丸い柱の上に、馬の首を四個つけた馬頭観音塔であった。三郎は、完成した馬頭塔を前に村人たちに向かって、 「人間、所詮は生身のからだ、いつどのようなことでこの世を去るやも知れぬ。 村人たちはそれを受けながらも、 だが、その笑いの陰に、 村人たちの言うとおり、その後も三郎の身辺には何も起きなかった。そして天寿を全うして三郎は世を去った。 三郎の死後かなりたってからのこと、 しかし村人たちは、 第二次世界大戦の食料難で祭りが途絶え、現在にいたっているが、最近近くの人々の間から 参考 熊谷三郎兵衛(くまがいさぶろべえ) 慶安事件(由比正雪の乱、慶安四年=1651)の際、丸橋忠弥とともに首謀者の一人となった。 ゆう雲寺(ゆううんじ) 梅田町一丁目居館にあって、山号は梅松山、建長寺派小本寺で、嘉元三年(1305年)八月に梅園義有が創立。慶安二年(1649年)に将軍家綱から五石七斗の下賜があったが、維新のおり上知している。 象形の歓喜天が有名。 copyright (C) 1997 KAIC & H.Ogawa & K.Yoshida |
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