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シリーズでご紹介いたします。 お楽しみに........ 相生町2丁目 赤城山に腰をおろし一休みした巨人の足あと伝説 青い空がどこまでも果てしなく澄み渡り、雲一つなく晴れ上がった秋の昼さがりであった。 村人たちは、田んぼのハデの稲束の干上がり具合を見たり、麦まきの段取りにと、野良仕事に精をだしていた。 昼の休みが終わり、村人たちが再び野良仕事に取りかかってから、一時もたった頃だった。それまでサンサンと降り注いでいたおだやかな陽射しが、突然さえぎられたのである。 村人たちは、このだしぬけの異変に、一様に仕事の手を休めて「おや?」というふうに空を見上げた。 ところが、ところがである。空を見上げた村人たちは、あまりの状況に、びっくり仰天をしクモの子を散らしたようにその場から、一目散に逃げだした。 中には、手にした農具を放り出し、悲鳴を上げて逃げ惑う人さえ見られるほどだった。日陰を作ったのは雲でなく、なんと雲つくような巨人だったからである。 一瞬にして村内には人っ子ひとり見られなくなり、巨人の大きな黒い陰だけが、村を薄暗くして伸びるだけになってしまった。 巨人は桐生川の東の連山をひとまたぎして、たった今、相生の村に足を踏み入れて来たのだった。そしてそのまま村を通り過ぎる予定だったのである。 ところが村に入って見たら、小さな人間どもが一心に野良仕事をしている様に出くわしたのである。その動きが巨人にはもの珍しかったため、しばしたたずんで仕事ぶりを見物しはじめたのである。 日陰は、こうして出来たのだった。でも、巨人は全く村人たちには危害を加えることをしなかった。 じつは、巨人は長旅を続け、相生村に入った時は大変疲れていた。村人たちの野良仕事の様子で一時は疲労を忘れはしたものの、予定を変えて、ここで一休みしたい気持になっていた。 暫くあたりを見回していた巨人は、やおら北の方面へ数歩足を運ばせた。 巨人の歩む方向には上毛三山第一の秀峰・赤城山が、長い裾野をひいてそびえ立って ・・いや巨人の膝小僧ぐらいの高さに小じんまりと盛り上がっていたのである。 巨人はその、赤城山に近ずくと、山頂にドスッと腰をおろした。秀峰・赤城山を休憩用の椅子にしたのである。 赤城山に腰をおろすと、巨人は両の手でほほ杖をついて、今度はゆっくりと足尾山系や、紫にけむる秩父連山の秋色にみとれた。 半時ほど休むと、巨人はスックと腰を上げ、軽い足どりで、太陽の傾きはじめた西の山をひとまたぎにし、夕陽の彼方へと巨大な姿を没していった。 村人のドギモを抜いた、巨人の突然の来訪・・それだけに巨人の去ったあとの村内はまさに台風一過以上の騒ぎだった。 しかし巨人が何らの危害も加えなかったので、村内がもとの静けさを取り戻すのに、それほど多くの時間は要しなかった。ただ、この村人と巨人の出会いの様子だけはクッキリと残された巨人の大きな足あとと共に子孫への語り草とされたのである。 赤城山という豪華な椅子を使ったせいか、疲れの癒えた巨人の両の足には、立つ時に予想以上の力が加わったのであろう。巨大なふたつの足あとが、相生村訪問記念?として刻まれたのである。 村人は、やがて、この巨大な足あとの中の土地に「足下(あしした)」の地名をつけた。更に両足の間の土地には「足中(あしなか)現在の(足仲)」の名を贈った。 そして語り草のしるしにしたのである。 参考 足仲(あしなか) 桐生大橋から桐生競艇場に向かって一路、進むと眼前に東武桐生線ガードが見えて来るそのガードをくぐり抜けるとそこは相生町1丁目で、右手奥に団地が望める。県営の足仲団地である。そして巨人伝説はこの周辺を舞台にしている。 町名変更で「相生町2丁目」となり、伝説を偲ぶ地名も見られなくなってしまったが、この「足仲団地」と言う名称や足仲児童公園などとわずかに「古き名」が残り面影を止めている。 ホームページ作成 斉藤茂子 |
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