桐生からくり人形についての所見
株式会社 吉徳資料室
小林 すみ江氏

 先般、桐生市教育委員会のご好意により、現在同市に残存するからくり人形の調査に参加させて頂く機会を得ましたことを御礼申し上げます。調査については、当日の時間的制約などから詳細を検討するには至りませんでしたが、人形史を専門としている者として、その立場からのみ、人形の印象等に関し若干の私見を申し述べます。
  1. 人形の頭(かしら)について
     調査の際、目にしたのは「義士討ち入り」(昭和3年)を始め「巌流島」昭和27年)「助六」「羽衣」(昭和36年)などの人形でしたが、「面相はいずれも極めて写実的で、小型ながらいわゆる生人形(活人形=写実性を重視する人形)の系列に連なるもののように思われました。これらの頭は恐らく、桐生市の祭礼に際し各町内の演目に合わせて特別に製作されたものでしょう。(ただし、「助六の禿(かむろ)」の人形のみは、昭和36年当時市販されていた通称おやま人形の頭をそのまま流用したもののようです。)
     人形のかしらを写実的に作るということは以外に難しく、とかく通俗に随して人形美を損ねるおそれがあり、そこには技術のみならず作者の美意識が必要とされます。その観点からすると、作品の出来ばえとしてはやはり時代的に古い昭和3年の人形群の方が、後年のものよりややすぐれているように見受けられました。なお、人形のプロポーションを見ると胴体に比して頭部がかなり大きく作られていますが、これは演じられた当時の写真にさほどの違和感がないことから推して、おそらく舞台上の効果を計算に入れ、あえて大き目に作ったものではないでしょうか。
  2. 人形の構造について
     義士討ち入りの人形(一部のみの所見ですが)には、脚部が膝で折れ曲がる構造が見られ、上脚・下脚をゴム紐で連結させていますが、これは昭和初期の市松人形に見られる新工夫と全く向様で、作られた時代を如実に物語っています。なお、当時はゴムの劣化を考慮に入れていなかったものらしく、これには新しいゴムによる(後年(恐らく昭和27年再演時)の補修が見られました。
  3. 人形の衣装その他について
     町内ごとにかなりの予算を計上した記録が残る通り、各人形ともそれぞれ上質の裂を豊富に使用し、また演目の役柄にふさわしい衣装をきめ細かく着せ付けて、かなり贅を凝らした仕様となっています。さすが織物で栄えた桐生、という印象を強くうけました。さらに髪型、履物(草履、下駄、わらじ等々)、小道具(刀、錫杖、傘、船の櫓櫂等々)の出来も非常に良く、なかんずく義士討ち入りの蕎麦屋の屋台に徳利や猪口、土瓶などが並ぶ細かさには驚かされます。(これなど現在では全く製作不可能なものの一つでしょう。)
  4. その他
     明治27年の史料に「生人形師東京浅草公園二区竹田縫之助」の名が見られ、その「大江山」の人形が水車応用のからくりで動かされたことが記されています。人形の発見を望むのはもはや無理でしょうか、からくり芝居の元祖・竹田近江の系譜か出て、幕末から明治にかけ江戸東京の盛り場でしばしば生人形興行を行った竹田縫之肋の人形が、明冶中期にご当地桐生でなお活躍していたという記録は誠に貴重なものと存じました。
     当時の鉄道の発達が、浅草と桐生との絆をそれまで以上に強く結んだことでしょう。また、その意味で桐生は江戸文化の一終着点と見ることも出来るでしょう。今回のからくり人形への見直しが、桐生が果たした大きな文化的役割を再認識する契機となるよう、心から願っております。
    以上、ごく散漫な所見のみに留まりましたが、あしからずお許しください。


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