群馬県は人形の宝庫
銀の鈴舎
宇野 小四郎氏

 桐生の水車からくりが保存会によって再出発したことは喜ばしい。
これまで群馬県下に伝承されている人形劇は、人形芝居は九箇所、その種類は六を数える。一県内にこれだけ存在することは他に例がない「安中の灯籠人形」は不思議な芸能で、舞台の横や下から紐を使って宙に吊った人形を動かす。起源は古く、安中の芸能も室町時代末から江戸時代の初期を反映していると僕は思っている。前橋市の「下長磯の式二番」は有名であるが、同じような人形は粕川村の「込皆戸の二番斐」や八代の人形座にも残されている。これらは江戸時代初期に始まり、群馬県下に入ったのも江戸時代の前半であろう。日本の人形芝居というと文楽を思い起こすだろうが、この義太夫節による三人遣いの人形芝居は、現在、月夜野町「古馬牧人形」と松井田町「八代人形」赤城村「津久田人形」で行われている。皆元禄の頃に始まったという伝承を持つ。それを証明する文献はないが、津久田には今から280年ほど昔、亨保八年の記録がある。人形はまだ今の文楽のように三人遣いになる以前のものである。群馬県の座は全国でも古い歴史を持っている。江戸時代後半になると、座敷などでも手軽に見たり楽しんだりできる一丁型の人形芝居が普及してくる。人形は大道などで演じられた形式が活用されたと思えるが、沼田市「沼須人形」には、片手人形で、人形の首から下に短い棒を指の間に挟んでかしらを動かす。挟み違いがある。高山村の「尻高人形」はこれとは異なり、小型の棒遣い人形である。 そして桐生の水車の屋台のからくりは、幕末の江戸の見世物、世に言う竹田からくり芝居の姿を今に伝えてくれる貴重な存在である。 鈴木先生が言われたように江戸で消えてしまったものがここに生きていたのである。またそれは山田先生も言われたように、この人形、からくりを通して、細工人と見物の眼差し、息使いまで感じ取れるのである。先人と同じ文化が共有できる仕掛けがこのからくりなのである。 先の前橋の三番受のかしらに、安永九年(1780)桐生永山熊蔵という墨書があり、江戸時代中頃に桐生に、腕のよい人形細工人がいたいたことが知らされている。幕末文久二年(1862)三丁目の鉾の「翁」の作者和泉屋勝五郎も桐生の人形細工人である。この時代桐生には操りの名手と言われた林長右衛門(寛政二年〜明治五年) が活躍していたことも併せて考えるべきであろう。 群馬の人々がいつの時代も新しいものを受容してきた知的な好奇心と感性、それを伝えて来た地域のありかた、力というものは、これらの桐生を考える上で評価されてよいと思う。
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