曽我兄弟の父、河津三郎祐泰(すけやす)が伊豆の伊東で工藤祐経(すけつね)の従者によって暗殺されたのは、安元二年(1176) 十月、伊豆奥野で行われた狩の帰途でした。暗殺の背景には、祐泰の父伊東祐親と工藤祐経との間に伊豆久須美荘をめぐる所領争いがあったといいます。 兄の曽我十郎祐成(すけなり)、弟の曽我五郎時致(ときむね)は武士道の 面目にかけて仇討の達成を念願しました。 兄弟の母は、身辺の平穏を望み、わが子に仇討ちの志を捨てさせようとしましたが、兄弟の父への思慕と、仇祐経に対する憎しみは強く、兄弟は仇討ちの初志を貫く心づもりでした。 今から約800年前の建久4年(1193)5月28日、源頼朝が富士山麓を舞台に大巻狩を催し最後の狩場として白糸の滝付近に陣を構えました。工藤祐経の陣は音止の滝の東方にあり、兄弟はこの夜、松明を手に幾つもの木戸に防げられながらも、ついに仇討ちを成し遂げました。 その時の様子をつぎのように伝 えています。 「廿八日、癸巳。小雨降る。日中以降霽(は)る。子の剋(きざみ)、故伊東次郎祐親(すけちか)法師が孫子、曽我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね)、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門尉祐経を殺戮(さつりく)す」 兄弟は駆けつけた部下たちと渡り合い、兄十郎は朝比奈四郎に斬殺され、弟五郎は頼朝の御前目指して奔参しましたが、大友能直(よしなお)に制せられ、小舎人五郎丸に捕らえられてしまいました。 翌29日。五郎に対する尋問が行われ、夜討ちの本意をただしたところ五郎は将軍の面前で直に言上したいと言いはり、許されてつぎのように述べました。 「祐経を討つ事父の尸骸(しがい)の恥を雪(すす)がんがために、ついに身の鬱憤の志を露はしをはんぬ。祐成九歳、時到七歳の年より以降(このかた)、しきりに会稽(かいけい)の存念を挿(はさ)み、片時も忘るることなし、しかうしてつひにこれを果たす。」と。 ついで五郎は、拝謁を遂げた後は面前で自害するつもりだったといい、皆を驚かせました。 兄弟の仇工藤祐経は、頼朝の寵臣でしたので、その人を討つということは、頼朝を中心とする東国の武家秩序に対する反逆でありました。従って仇討ち成就は死を覚悟しての行動であったのです。 頼朝は五郎が稀代の勇士であるため助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆きを見て、断首による処刑を申し渡しました。 現在も工藤祐経の墓や兄弟が密談をしたといわれる曽我の隠れ岩があり、さらに、国道139号線を東へ入った所には、源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるためにつくられた曽我八幡社があります。 |
※桐生からくり人形芝居では、 一場、「十郎と五郎が工藤祐経の屋形へ、おもむく場面」 二場、「行灯で手引きする女中の案内で寝所へ…」 三場、「工藤祐経を兄弟で討ち取る場面」 |