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1.続々・西方寺の大力和尚
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18.地名「おんだし」の由来
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25.広沢の日限地蔵(広沢町)
26.加茂さま蛇
27.陸稲禁忌の広沢地区
28.名馬『小菊』
29.「跳滝」の由来
30.釈迦の湯

30.釈迦の湯


<第30話・菱町5丁目>
釈迦の湯
湯浴みの美女のぞき
住職堕落し寺も焼失


 桐生市の東端に位置する菱町五丁目(上菱・かみびし)の茂倉沢を、あえぎあえぎ登りつめますと、急坂の果てるところに、かなりの広さをもつ平地が広がります。

そこは、昔「山の中には立派すぎる」とさえ言われた、お寺のあった場所なのです。でも、当時は山奥のお寺にもかかわらず、立派な建物に相応した大勢の参詣者の姿がみられ、境内は人影の絶えることのないにぎわいを見せていました。


 山奥のお寺には、考えられないような大変なにぎわい・・・。しかし、そのにぎわいは初めからあったわけではありません。
 住職が、訪れる参詣者に対して、
「こんな山奥の寺にまでやってきてくださる善男善女−−− ありがたいことじゃ。その人たちのために、せめて汗を流すだけでも・・・。」
と、いつの日からか感謝の心でもって風呂(ふろ)を沸かし、欠かすことなく参詣者のもてなしを重ねてきていたことによるものでした。
 そのもてなしを続けているうちに、参詣者の間で


「お寺のお風呂は、皮膚の病に良く効くよ。」
「ほう、私は、しゃく(胸や腹のあたりに起こる激痛、さしこみ)に良く効くなあと思っていましたがね。肌にもいいんですか。」
「いやいや、ありがたいお寺さんのお風呂ですからな。きっと万病に効くに違いありませんよ。」


などと言われるようになりました。
 そんな話し合いから、お寺の風呂の効用が、やがては「万病に効くお風呂」といううわさにまで発展して、近郷近在にまで広まっていきました。そして、そのうちに、湯浴み目的の参詣者までもがお寺を訪れるようになりましたので、お寺は、一層のにぎわいを招くようになったのでした。


 お寺のお風呂のあまりの人気、そして、あまりの人出に、もう小さな風呂ではまかないきれなくなってしまいました。そこで、住職は、境内の片隅に岩石を巡らせた露天風呂を設けて、参詣者の願いに応えましたので、お寺は、ますますの活況を呈するようになりました。


 間もなくして、この露天風呂は、人々によって「釈迦(しゃか)の湯」の名がつけられました。お寺のご本尊が釈迦如来石仏だったことからの命名でした。
 ある秋の日のことでした。お天気がよい静かな日だというのに、この日に限って、珍しく参詣者が一人もお寺を訪れませんでした。こんな日は、一年を通じても滅多にないことですので、住職も少々ヒマをもとあまし気味でおりました。


 あまりの退屈さから、住職が、
「横になってばかりいると、体の調子がおかしくなってしまうわい。どうりゃ、境内の落葉でも片付けてこようかの。」
と、重い腰を上げようとしたときでした。
「和尚様、しばし釈迦の湯を使わせてくださいましな。」
と、ひとときの湯浴みを所望する人が訪れました。
「どうぞどうぞ。今日は十分に風呂があいておりますからな。」
と、言いながら、住職は、声の主の方を振り向いてビックリしてしまいました。湯浴み所望者が、なんと、山奥の寺にはまぶし過ぎるほどの、それはそれは美しい女性(にょしょう)だったからでした。

そのうら若い絶世の美女が、露天風呂に一人湯浴みを始めたのです。住職は、難行苦行で心身ともに鍛えぬかれた身ではありましたが、それはそれ、僧侶とはいっても、やはり人の子でした。美女の湯浴み姿に、ついつい心が引かれて、その姿を垣間見てしまったのです。おまけに、仏の道にお仕えする身としては起こしてはならない、あらぬ邪念をも持ってしまったのです。


 住職のこの破戒は、まもなく自らの不運を招く結果となってしまいました。これまでの住職は、たいへん誠実な人で、檀家の信望の厚い人でした。その住職が、まったく人格(ひと)が変わってしまったのです。朝夕のお勤めは投げ出すやら、放蕩無頼は重ねるやらし、お寺から追われる羽目になってしまったのです。不運は、住職だけにとどまりませんでした。人気(ひとけ)のない無住寺の本堂から火が出て、お寺そのものまでが灰侭に帰してしまったのです。破戒に対する仏の怒りの鉄槌・・・。この事件は、そんな感じさえする火災でした。
 往時のにぎわいは、もはや伺うべくもなく、焼け落ちた残がいの中に、ご本尊のお姿だけが、いかにも寂しそうに佇むだけとなってしまったのです。


 その後、雨にうたれ、風に吹きまくられ、霜や雪にからだを冷やされて、訪れる人のないまま、ヒッソリと山野に座しているご本尊のお姿・・・・・まことに哀れとしか言いようがありませんでした。お寺まで焼失してしまい、まったく人々の姿が絶えた釈迦の湯は、底に落葉や土がたまるばかり・・・。ご本尊だけが人恋しげに、ジーッと、その場に座し続けて、明け方に太陽を迎え、日暮れて月光を眺める日々を繰り返しておりました。



 平成の世となった現在も、お寺の復興はみられませんでした。釈迦の湯もすでに姿を消してしまい、石仏調査でご本尊との面会に訪れる人や、山で仕事をする人以外は、この地を訪れる人の姿は、相変わらず見受けられません。
 でも、ご本尊・釈迦如来尊像だけは、山で働く心ある人たちの手によって、近くの洞穴(ほらあな)の中に居を移され。「お山の守護仏」として、余生を送ることができるようになりました。ご本尊安住の地を訪れ、天井からシズクを背に受けながら座す、釈迦如来像のお顔を見上げていますと、人の心の弱さ、ご自身の悲しみを胸に、往時の釈迦の湯の賑わいをソッと思い起こされておられる・・・・・そんな感じが尊像から肌に伝わってきます。さらには、眼前に広がる平地(お寺の跡)さえも、世の無情を訴えている−−−そんなふうにも思えてくるのです。


wpe9E.jpg (5130 バイト)<釈迦如来石仏(しゃかにょらいせきぶつ)>
 釈迦如来石仏は、禅定印を結ぶ座像で、総高2メートル(像高は76センチ)。洞穴内に安置されているために、ほとんど風化されていず、かなり新しい像のように感じられほど。

造立年は刻まれていないが、辺りの石造物の様子から、造立年は元文三年(1738)よりは時代がさかのぼろう。現在は、山仕事に従事する人々が、この尊像を「山の神様」として大切にお護りし、祭りまでもおこなっている。


◆道案内◆
KHCバス停「観音橋」下車。「跳滝」への道と同じ道を歩む。跳滝への道へは入らずに直進すると、間もなく幅2メートル足らずの道が山の中へと進んでいる。そこが釈迦如来石仏への登山口である。そこから尊像までは、普通の人の足で、およそ1時間を要する。なお、目印が殆ど無いため、出向くにあたっては、十分に地元の人に道を確かめてから山に入ってほしい。


(打ち込み:長田克比古)

 

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